うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、久しぶりのすろーでの入浴介助と、【第2部 投影同一化】


 今日も日中賑やかだったので、朝から現場に応援に入りました。
現場が一番楽しいし、勉強になります。
 木村敏先生まだ若いころ、自分の先生に何がしたいのか?と聞かれたときに、精神病理学(だったでしょうか?自信がなくなってきました......。)をしたいと言ったら、そんなものはない!あるのは臨床だけだ!と大分前に本で読み、アップさせていただいた記憶があります。まさしくその通りだと、レベルは雲泥の差がありますが、福祉の現場もそうだと思っています。
 写真は、日中一時の方と、食後の散歩をしていたら、花火の台が見えたので、近くまで一緒に行ってみました。
今年も、うたたねで、花火の鑑賞会があります!





 夕方、うたたねからすろーじゃむに向かい、入浴準備をして、支援学校のバスが来るまで、少し本を読ませて頂きました。(下記は昨日読んだ個所ですが)ああそうか、最近、無理やり本を読む時間を作っていましたが、この時間を使って以前は読んでいたこと、思い出しました。
 体を追い込み始めて3ヶ月になりますが、入浴介助が以前より、負担なく、簡単にできたので、一緒にいた職員がびっくりしていました。
体も使わないと駄目なんだとも思いました。

 送迎は任せて、掃除・洗濯などきちんとして、うたたねに戻って来たら、職員と利用者さんたちの楽しそうな声が、外まで聞こえていました。今日も何事もなく、一日が終わろうとしていること、皆さんに感謝しています。

 写真は、準備が少し早くできたので、雑草を抜いて、近くにハーブの花が咲いていて、飾りたいなと思い、はっく長屋に置き去りに?されていた、小さなタペストリー?を勝手に借りてきて、写してみました。気に入ったので(笑)しばらくそのままにしておきます(笑)




 本のほうは、総説だけでも十二分に勉強になります。


第2部 投影同一化
総説
 クラインは1946年に論文『分裂的機制についての覚書』で妄想-分裂態勢を描き出すなかで、投影同一化の概念を発展させました。とはいえ、『精神分析の発展』Developments in Psycho -Analysis (M. Klein 1952a)のなかの1952年版のその論文まで、「私はそれらの過程に“投影同一化”の用語を用いたい」との 決定的な定義を示す文章を入れていませんでした。子どもが母親の身体の内側に入り込む空想を抱くことについてはクラインは長い間語っていました。けれども、『分裂機制についての覚書』で、そのなじみ深い考えを投影と結びつけることは異なった強調点をもたらしました。残りの自己から自己の悪い部分が排除された支配したりで所有したりするために母親とか乳房のなかに悪い排泄物と一緒に投影されますが、彼女は、こんな風にして母親が悪い自己になってしまうと感じられるような空想として投影同一化を考えました。自己のよい部分も投影され、それが過度になってしまわないなら、自我やよい対象関係を増強していくと考えました。 クラインは“投影同一化”という用語をさりげなく定義したのですが、それがたやすく誤用されてしまうので、その価値についてはいつも幾らか懐疑的だったのです(Segal 1982)が、しだいに、この用語の彼女の概念のなかで評判を呼ぶものになりましたし、とりわけを米国においてクライニアン以外の人たちに幅広く受け入れ、討論されている唯一の概念となっていますけどもっとも、そこでしばしばクラインの概念とはずれてしまっているところで討議されていますが。この概念の使い方や定義をめぐってかなりの論争がありました。投影と投影同一化との間に違いはあるのかというのが、おそらく最も頻繁にわきあがった問いでしょう。しかし、別の問いも重要です。受け取り手への効果にかかわりなく、患者の無意識の空想のみに言及するとき、この用語は使われるべきなのか。それとも、それは投影の受け取り手が、彼のなかに投影されているものによって情緒的が影響されている場合のみに使われるべきなのか?この用語は自己のある側面の投影についてのみ使われるべきか。それとも、内的対象群のある側面の投影についても使っていいのか?投影同一化についてのありそうなたくさんの動機についてはどうなのか;すべてを含めるのか? 患者が自分が投影している自己の部分や性質についての意識的な気づきを失ってしまっている場合のみこの用語は使われるべきなのか。それとも、そうした気づきが保たれている場合にもあてはめるのか?自己のよい性質やよい部分や投影についてはどうなのか;クラインがはっきりそう考えていたように、これらにもこの概念は使われるべきなのか。それとも、これまで支配的だったように、それは悪い性質の投影にとっておかれるべきなのか?クラインが考えたように、ある特別な身体的な空想が投影のなかに内包させているのか。それとも、精神という点から空想を語ることで十分に明瞭なのか?これらの多くの問いのなかで、群を抜いて数の多い討論は、投影同一化を投影と区別するのか、それでどのようにして区別するのか、との問いに向けられていました。 スィーガル(1967&パーソナル・コミュニケーション)によれば、投影同一化と区別される投影についてのクライン自身の見解は明白なものでした。;彼女は投影を心的機制と考えて投影同一化をそれを表している特有な空想と考えていました。しかしながら、この使い方は英国クライン派分析家によってさえもあまり支持されてきていません。はっきりと言明されることは稀なのですがで彼らのおおよその見解は、投影と投影同一化とを区別することは臨床的には有用ではないというものです。クラインの投影同一化の概念がなしとげたことは、衝動を投影する空想は、分割を含むことなく、かつ、自己の一部分を投影することなしには人は抱き得ないこと、さらに、投影されたときに衝動や自己の一部分は消えないこと;それらは対象のなかに入っていくと感じられること;を強調することによって、投影というフロイトの概念に深みと意味の深さを加えたことでした。意識的ではないにしても、無意識にその個人は自分自身の投影されている側面となんらかのコンタクトを保っています。