うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

バッグ完成と『臨床瑣談』中井久夫著より


バッグ220枚完成しました!
仕事場の『神さん』にお薄をお供えしてから、自分も頂き、給与計算に入りましたが、もうすぐ夜勤に入るので中断しました(笑)
ほおずきは結局、神さんの前になりました(今は横ですが)。


 親分がアイロンで焦がした(笑)物で、自分用のを作ろうと思い、やってみました。後は雑多な物を縫い付けるだけですが、中々難しそうですね!



 ひーひー王子との散歩道の田んぼも、稲刈りが近づいて来ました!
まだまだ猛暑ですが、秋を感じながら?乗り切ろうと思っていますが、乗り切れるかな(笑)本当に暑いですね!

 


 今日は、先日疲れた時に優しい(笑)、中井久夫先生の本を読ませて頂いたので、そこからアップさせて頂きました。(論文は難しくて理解できませんが......。)50円で購入させて頂いた本です。(除籍本)
 物の見方で、色んなことが変わりますね!


『臨床瑣談』中井久夫
1,虹の色と精神疾患分類のこと
4 もう20年の昔になる。同世代の精神科医からわたしの立場を問われたことがある。私は絶句して、それからとっさに「リアリズム」ですと答えた。おそらく「不完全なリアリズム」というほうがよかったろう。実際、診察は患者にかかる負担を最小限にしなければならない。私の頭の中に描かれた地図は多くの部分が点線で描かれた大航海時代の古地図であった。時間が経つとともに、それは明確な地図よりも、模様のはっきりしない絨毯のような広がりになった。しかも模様は変転し、揺らぎ、ざわめいていた。模様にはにじみも中間部位も重なり合いもあった。こういう絨毯は患者ごとにも、ある病にも、精神科の病全体にもあった。
 私はある時期から、診断は「治療のために立てる仮説」と考え、患者にもいうようになった。仮説だから患者との相互関係の中でたえず微調整され、時には大きく変わり、最期まで仮説の性格を失わなくて当然である。この考えは私をかなり楽にした。診断という行為の中で患者と医師とが出会える場所(meeting place)はここしかないと私は思った。
 私のいう絨毯模様とは、精神科医の中で長い時間をかけて醸成されたパーソナルな診断の一種のシステムであり、私と、私の世代、その前後の世代が座談や言葉の端々を交わす間にある程度共有するようになった治療文化の一部とみることもできる。

5 ここで、診断とはレッテル貼りだという、あるうる誤解のために一言しておこう。T・Sエリオットは猫についての戯詩(邦訳、北村太郎『ふしぎ猫マキャヴィティ』)で、猫には三つの名があるという。世間通用の名、その猫独自の名、そして猫世界の名である。診断にも、それに似た三種がある。
 「世間通用の名」とは診断書や保険申請に書く診断にあたるだろう。ここで言っておかねばならないのは、医師が「求められれば絶対に拒否できない」診断書は、その厳しい規定ゆえに、書き方には自由がある。たとえば、現診断体系の病名を書かねばならぬということはないと私は了解している。会社に提出する診断書には、人事の人にかかわるような平易で具体的な文章で書くべきである。「貴社における本人の労働を医師の私は想像できませんので、とりあえず試みに」という前置きを復帰診断書の冒頭に置いたりした。
 第二の「その猫独自の名」とは「ボンバルディーナ」とか「ガンビーキャット」という名である(飼い主の名が加わって「誰かさんちの何とか猫」に相当するか)。人柄や環境や薬物のききめを含む、その患者のための、その患者限りの診断だろう。むしろ見立てというべきか。これも精神科医のための仕事ではあるが、患者と共有できる部分が大きいものだと私は思う。
 最後は「猫世界の名」である。患者にも医師に語らない自己判断があるはずだ。それは長い長い物語であったり、一つの強烈な実感やイメージであったりするだろう。この精神科医にはふつううかがい知れない何かは病の核かもしれないが、回復の出発点にもなりうると私は思う。少なくとも、それが存在するものと仮定して尊重する必要があるだろう。ずっと後になって「別世界から戻った」「悪夢のようなところを通り抜けた」とふっと漏らすのを聞くことがある。
 患者が、その独自の体験を精神科の用語で書き換えるのを、シュルテは「精神医学化された(psychiatrisitert)」と形容した。『サリヴァンの精神科セミナー』の対象となった患者が代表例である。そこでは、担当医は精神医学用語を使うのを禁止して患者と争うが、私ならむしろ、精神科医がそのつど、言い直すことを勧める。「あ、まぼろしの声?」とか。それが思いつかなければ「きみのいう幻聴」と「きみのことば」であることを強調するだけでもよい。患者のアイディンティティ(自己規定)が「何々病」「何々症」という精神科の病名や症状名になるのは悲劇的である。「私は何々症です」には「きみは何々症そのものかね」「はあ」「何々症が服を着て歩いているのかね」と応対したい。精神科医は、症状を無視するのではないが、面接の焦点は人柄に置きつづける努力が重要だろう。落語には、蛇のなめる草をたずさえてソバの食べ比べに出た人が人間の形をしたソバになってしまった話がある。人をとかす草だったのである。患者は人間の形をした何々症ではない。

6 さて、私の〝絨毯″はどういうものであったろうか。たまたま、一九八二年前後、言語学者の有馬道子さんと会った。彼女はバーリーンとケイの『基礎色名』(一九六九年)という本をくださった。
 これは色名についての言語学で二〇〇ページに満たない。ただ、末尾に一枚の大きな付図がある。一見すれば可視光線のスペクトルつまり虹である。それにいろいろの工夫が加わっている。単純で巧みな工夫である。グレイを背景にして「虹」は縦に八つ、横に四〇に同じグレイの狭い仕切りで分かたれ、合計三二〇個の縦長の小タイルの並びと化している。すっと見渡して、線で仕切られた隣同士はわずかしか違わないのをただちに見て取った。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫のどこにもジャンプはなく、連続的に移行している。このように仕切るだけで、それがわかる。私には驚異だった。「虹は七色」なんかじゃない!
 ヒトは量を「質」に換えることによって、連続体を何個かに分類してしまう様になっているのだ。これは養老孟司氏の言葉を借りれば「脳の都合」があってのことではないか。キリストが着ておられたという「縫い目のない一枚の衣」は私たちにはありのままに見ることができない。全体医学は「心身一如」というが「心」と「体」の二語を使わねば日常の用さえ足せない。ひょっとすると精神医学の分類も「脳の都合」ではないか。私は疑いに落ち込んだ。
虹の色が七つとか、七つ道具とかいうのも、それを一般化した、人はプラスマイナス二つのモノあるいはコト以上は使いこなせないという「ミラーの法則」(一九五六年)も脳の都合だろう。精神医学の分類はおおむね、その範囲の数の項目の積み重ねでできている。私の薬の処方も一つの病気にはこの範囲しかこなせていない。