うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のすろーじゃむと、イヤホンと、中井久夫のまなざしから


 今日のすろーじゃむは、動物と触れ合ったり

 外食を楽しんだりしたようで、先程、親分から写真が送られてきました。おいしそうですね!
 メールで夜勤明けの仮眠から目が覚めました(笑)

 自分は14時に遅い昼食、シリアルを頂きました。






 二ケ月前にイヤホンを壊してしまい、セロテープで固定して使っています。特に問題はないのですが、先日、自分の作業場を整理していたら、15年前に買ったCDウォークマンの電池部分が膨らみ、使い物にならない状態で出て来たので、

 リモートコントロール部分のプラグをへし折り(笑)携帯に使えるようにしました。
 500円で買ったものより数段良い音がしますが、ズボンのポケットに入れた時に、ジャックの部分が長いので、よく外れます(笑)
 先日、家電量販店に買い物に行ったついでに、視聴できるイヤホンを全て聴いてみました。確かに良い音がしましたが、作られた音って感じがして、買う気になれませんでした。(買ってもらえないですが(笑))フィンランド製のアコースティックギターの音が良いので、それを弾いた後で行き、よけいにそう感じてしまったのかもしれませんね。
 原音に忠実なスピーカーやヘッドホン等もありますが、貧乏人の僻み半分(笑)生音には勝てない気がしました。
 CDが出た時には良い音だなと最初は感じましたが、デジタル処理して作られた音が主流になっていて、ギターのエフェクターも空間系がもてはやされていた記憶が(定かではありませんが)あります。
 自分は最近、クリアーな音を出したい時には、アンプに直結しています。それを見て皆さん、何もつけないの?と聞かれますが、それが今の自分には一番良い音に感じます。
 



 いきなり音の話題でしたが、下記にアップさせて頂いた本の箇所を読ませて頂いたときに思い出したので、ついでに書かせて頂きました。(笑)支援もそうなのかも知れないなと、何の脈絡もなく思いました。



統合失調症という生き方―中井久夫のまなざしから粟田篤志
1,患者に対するときは、どこかで患者の「深いところでのまともさ」を信じる気持ちが治療的である。信じられなければ「念じる」だけでよい。それは治療者の表情にあらわれ、患者によい影響を与え、治療者も楽になる。
わが国の精神科臨床にたずさわる人々のあいだで、「中井久夫」の名を知らぬ者はほとんどいないだろう。けれども一方で、中井の臨床的叡智を日々の実務の糧としている者は、いったいどれほどいるのだろうか。個人的な想い込みにすぎぬかもかもしれないが(そうであってほしいが)、中井がものした珠玉のようなことばの数々に、いまだ一度もふれたことのないという精神医療従事者の数は、存外おおいのではないかという気もする。
 ひょっとすると状況は、アメリカにおけるハリー・スタック・サリヴァンに似ているかもしれない。二〇世紀前半のアメリカ(まだ抗精神薬もなかった時代)を生き、統合失調症の治療者として比類のない業績を残したこの孤高の精神科医は、中井の手によって日本語によみがえり、本邦の精神医学会に大きなインパクトをもたらした。ところが、当のアメリカにおいては、サリヴァンの思想が普及し、継承され、深化することはついになかったという。
 サリヴァンを受け継いでいたならば、アメリカ精神医学はきっと(治療者にとってはもちろん、何よりも患者にとって)現在(いま)よりもずっと実り豊かなものに変わっていたであろうに。
 日本の精神医療は、アメリカと同じ轍を踏んではなるまい。だから駆け出しの精神科医には『精神医学の覚書』をいつもたずさえて欲しい。看護士をはじめとするパラメディカルスタッフには、仕事中いつでも手に取れるところに『看護のための精神医学』をおいて欲しい。患者との関係に疲れた時や治療に行き詰まりを感じた時には、患者の病理を穿鑿する前に、『こんなとき私はどうしてきたか』をそっとひもといてくれたらと思う。そして願わくば、日本中の精神医療関係者それぞれが、抜き差しならない日々の仕事の拠りどころとして、各自の胸の裡に想い想いの中井久夫像を抱いてくれんことを。
 もっとも、操作的診断、アルゴリズム、そしてEMBが三種の神器のように重宝される現代日本の精神医療において、このような臆見は一笑に付されてしまうかもしれないけど………。
 現場に身を投じる多くのこころある実務家のあいだには、中井の思想がしかと根づいているであろうという「深いところでのまともさ」を「念じつつ」〜(木村敏中井久夫より)