名古屋に全国障がい者文化祭に出品させていただく作品を11点持っていきましたが、親分が準備不足だったので、途中蒲郡のカーマで梱包しなおしました(笑)。
名古屋に着いても、ミスがあり......。書類の不足分をFAXで送らないといけなくなりました。だから皆さん、親分が認知症ではないか?と心配するのでしょうね(笑)普段からそうで、おっちゃんがフォローさせていただいているので、皆さんわからないのでしょうね(笑)
いい加減、腹が立ちますけど.......。
『治療の行き詰りと解釈』を少しだけ読ませて頂きましたが、福祉の現場でも、支援の難しい方を、見れないからと違う施設から引き受けさせていただいて、うたたねできちんと支援出来ていても、薬を盛っただとか、変なことをしているに違いないと、噂で聞くことがあります(笑)
そんなこと言うなら、見にきたらいいのに!といつも思います(笑)
笑うしかない時が、多々あります!
『治療の行き詰まりと解釈』精神分析法における治療的/反治療的要因H.ローゼンフェルト著・神田橋條治:監訳
第1部序論
出発点
私の精神医学への関心はドイツでの医学訓練中に始まっており、医学博士論文のテーマは「児童期における多発性欠伸発作」の影響を論じたものであった。しかしながら、1933年から34年にかけてのドイツにあって、障害を持つ児童や成人についての研究を続行する機会が私にはなかった。ヒットラー政権は非アーリア人の医者が患者と個人的な接触をすることを許さなかったのである。イギリスに渡ったとき、私は心理学への関心を追求するするにさきだち、何年間か一般医療の実務をするつもりであった。しかし、1936年秋にイギリスでの医学実務の資格試験に合格したのち、私は精神療法家になる道へと放り込まれることになった。その当時、内務省は経験をつんだ外国人医師、通常専門医だけに、イギリスに留まって臨床を許可していた。つまり、私は資格をとるやいなや、イギリスから退去を要求されるほうに属していたのである。ところが、イギリスでは精神療法家には門戸を開いていたので、精神療法家になる可能性を詳細に調べていたところ、ダヴィストック・クリニックに2年間の精神療法家訓練課程があることを知り、私は直ちに申し込んだ。そして受け入れられたのである。
ダヴィストックでのコースが始まるのを待つ9ヶ月の間に、私は最初にオックスフォードの近くの精神病院に、その後ロンドンのモーズレー病院で臨時代理医師の仕事を得ることができた。オックスフォードのちかくの精神病院では、患者総数の半分、350名を担当しなければならなかった。そこではたった3人の医者が約700名の患者を診ていた。病院の管理と経営を行う院長と先輩の医者、そして私の3人である。精神病院での臨床に長年たずさわっていた先輩の医師の説明によると、ここではほとんどする仕事がないとのことであった。ときおり新入院患者を診た後は、私の仕事は病棟を回診することであった。私は午前中に1時間半ほど働けば、たいてい、午前中の残りも午後も何もすることがなかった。実際のところ、院内では身体面をチェックするほかは、治療は行われていなかったのである。
私は新しく入院した患者のなかから、精神療法に適した患者を探すことを決心し、緊張型精神分裂症と診断されたある患者を選んだ。彼は4週間ごとに激しい緊張性興奮の発作を起こし、それはいつも1週間続くのである。その患者エドガーは。すでにこの病院に1年以上入院しており、スタッフは彼が非協力的で、病棟の作業を全くしようとせず、ときに暴力的であるとこぼしていた。しかし、彼は私に対しては大変友好的に思えてのである。私は、院長に私がエドガーに簡単な精神療法をするのを許可してくれるかどうか尋ね、同時にもしも改善が見られた場合、その結果が精神療法によって得られたことに同意するかどうかを尋ねてみた。イギリスでは、評価され得る程度の効果を、精神療法によって得られると信じる人はほとんどなく、したがって、どのような改善も「寛解」と呼ばれていた。私は寛解がしばしばみられるものだということを疑ってはいなかったが、自然寛解と精神療法的なアプローチなどのように外的でポジティブな影響による寛解との間には明らかな違いがあった。このような仮説には、分裂病に心因的な基盤があるかもしれないtぽいう意味が含まれているが、当時、イギリスの精神科医には――多分ギレスピー(R.D.Gillespie)や、私はまだその当時会ったことはなかったが、スコット(C.Scott)のような他の一、二の医者は別にして――その考えは受け入れられてはいなかった。いずれにせよ院長は、エドガーが慢性患者であること、それゆえもし何らかの改善があったとしたら私が患者が行なったことに帰すことにしようということで、私に同意した。
エドガーに話しかけてみると、彼は毎晩就寝時に電気ショックに耐えなければならないと話してくれた。それはほとんど2〜3週間おきに起こり、彼を非常に混乱した気持ちにしていた。彼が語ったことは、タウスク(Tausk)
が1919年に記載した機械による被影響妄想であると私は理解した。エドガーは私にたくさんの質問をし、友好的であった。彼は自分を困らせている種々の体感についての私の説明に積極的に耳を傾けた。私はそれを主に性的感情だと考えていた。エドガーはセックスについては全く無知のようであった。そのことを彼に伝えたとき、私には、彼が自己の性的感情に脅かされることが少なくなり、それらをより受け入れられるように思えた。彼はとても感謝し、私のために何ができるかを尋ねた。私は、彼の感謝の気持ちを病棟で協力することによって示せたら有効であろうし、皆もやりやすくなるであろうと述べた。彼はそうし始めた。そのときから、エドガーの周期的な興奮はおさまり、私は時おり彼と会うだけにした。1,2ヶ月後、私が精神病院を去るときにはまだ彼は退院していなかった。しかし、私が6ヶ月後に病院に戻ったとき、院長にエドガーのことと、院長が心理的な療法についてどう考えているのかを尋ねた。院長は、私の質問に驚いて言った。エドガーは退院した。予想外の自然寛解が起こったのだと!〜