うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

槿の花と利休の花と、今日のバリバラで思ったこと


 色々考えていると、やはり辺縁にある記憶が中心に寄ってきてしまい、『花道史研究』山根有三著作集七の利休の花の箇所が思い出されましたので、アップさせて頂きます。
 その前に槿の花を二輪頂いて来て、毎年恒例の様な入れ方でいけてみました(笑)でも、気が引き締まりました。
 今日、急な演奏の依頼があり、曲をYoutubeで見てみました。一曲は、聞いていると、パッフェルベルのカノンと同じコード進行だったので、適当にクリシェ入れながら、ファンクのバッキングを交えながら動画見ながら弾いてみたら何とかなりそうでした。こちらはキーが変わっても直ぐに対応出来ます。
 もう一曲は、自分の中に入っているコード進行なので、大丈夫そうですが、二つとももう少し曲を聴いて、間を感じれるようになりたいと思います。あまり時間がありませんが、何十年も音楽をやらせて頂いて来た強みがあります(笑)下手ですが(笑)!

 少し長いですが、尊敬する山根有三先生の文章をお読みください。


 先程、親分から連絡があり、バリバラを見ろとのことでしたので見させて頂きましたが、玉木さん本当に疲れた顔されていましたね.....。
 でも、論点が全体的なことになり過ぎていて、帰納しすぎ感がありました。加害者が薬をやっていた事には触れなかったのは如何なものか?と思いました。それで精神に障がいをお持ちの方々を一括りにされても....と思いますし、施設職員が全員彼と同じ思いでもないし、木村敏先生が精神病理を研究したいと言った時に、指導に当たる教授が、そんなものはない、あるのは臨床だけだ!と言ったように、特別良い事も、悪い事も現場にはないし、それで浮かれている様なら、サリヴァンの言う様にまだケツが青いとしか言いようがない気がします。
 今は亡き、藤木先生も、和紙を漉く仕事がしたい。と言っていたのも思い出しました。木村敏先生の話と同じことだと解釈しました。

 今回の事件は、施設だけの問題ではなく、社会全体の問題のように思えます。いい学校・いい会社・いい職業でないと認めない社会がいけないのでは?自分に大した学歴がないので言っても誰も聞く耳がないかもしれませんが、今、必要とされているのは、ナレッジな人材だと思われます。いくら高学歴でも発想がない人材は役に立たないのでは?障がいをお持ちの方でも発想が豊かな方はいくらでもいますし、その様な方向に持って行くのが施設職員の仕事だし、会社なら上司の役割だと思います。上司に実力がないのに部下に求めても仕方がないし、人も育たない。自分も能力はありませんが(笑)職員の壁になっているつもりです。
 その壁を越えられない職員達は辞めて行きます。それでいいと思っています。それがウィニコットのいう、生き残るということだと解釈しました。解釈が多いですね(笑)講釈よりは良いかもです(笑)
 話が大分逸れてしまいました。
 自分が生きている値打ちがあるかどうかは自分が決める!
バリバラを見させて頂いていて、一番印象に残った言葉でした。
 他人に自分の人生を決められるのはイヤですね!
自分も長い物に巻かれずに生きて来て良かったと思っているので、本当に同感です!
 どんな仕事だって日々の積み重ねでしかないので、福祉職だけがつまらないなんてありえない!目標何ていくらでも見つかる。スマホばかりいじってないで、本でも読めばいいし、ネットだって勉強しようと思えばいくらでも情報が簡単に手に入る。言い訳だけの人生なんて送りたくない!
 仕事の不満や人の批判ばかりする方々は、 利休のように耳をすませて、仕事に取り組んでいるのだろうか?施設は職員の働く場ではないのをご存知でしょうか?
 野茂さんだって、イチローだって弱小チームにいて、素晴らしい記録を残しているし、V9時代や金満球団の巨人に居ての200勝って価値があるの?今年なんか岩隈投手が一番日本人で頑張っているのに、故障明けのダルビッシュが一番メディアに出るってなんなんだろう?
 イチローは、只々、毎日の積み重ねと言い切っていますが、それが真実ですね!生き残る!ウィニコットの素晴らしさもその言葉に凝縮されていると自分は思っています。

 いい会社に入っただけでその個人はどうなのか?それまでの頑張りは評価に値するかも知れないが、社会に出てなんぼのもんだし、個人的に自分で事業を立ち上げて上手く運営できるのか?是非、偉そうにやっている諸君には、自分の名前だけで頑張って頂きたいと思います。
 どうせ一回きりの人生なんで、障がいがあろうがなかろうが、思いっきり生きればいいと思います!

『花道史研究』山根有三著作集七
桃山・江戸期の花道より
(昭和二十三年十月『花道全集第二巻 日本花道史(上)』河原書房所蔵)
三、近世初期花道の特色
Ⅰ 茶道の花
二 利休の花
  利休の「茅茨の小座敷」に至って、茶室は完成した。それは侘びた草の庵で、大きさも、四畳半から、三畳、二畳半、二畳とだんだん小さい物が作られた。これらの茶室に於いて、利休は、今までの茶事程度の茶の湯を、芸術的な、きわめて精神的な茶道にまで、高めたのである。 
 茶室の花も、利休の茶道のうちにあって、深い精神と意味を与えられた。我々は先ず珠光・紹鷗と同じ四畳半の場合の飾りを見よう。『南坊録』に、
 
 休ノ京間四畳半ニテ紹鷗ヲ御茶申サレシ時…中略…後座ニハカケ物ノ前ニ伊賀焼ノ置花入ニ水仙ノ初咲ヲイケタル計ニテ 
 
 とある。ここでは、掛物の前、床の上には、他のものは何も置かれず、ただ花だけが飾られたのである。花は、「第一の道具」とされる掛物につぐ位置を与えられたわけである。しかもその花は、「伊賀焼ノ置花入ニ水仙ノ初咲」であった。これは、庶民的な草のタテバナに入るのもであるが、このような重大な位置を与えられるとともに、草のタテバナから、茶室花としての特殊な様式をもつに至るのである。
 茶室花では一般に「花をいける」といっている。以前は「花を立てる」といい、それをタテバナと呼んでいたのである。しかし「花をいける」というのは必ずしも茶室花から始まったのではないかも知れない。『仙伝抄』に、
 
 花を入るゝと云ふはさいらうの様なる物にいけたる体を云ふ

 とあり、文阿弥の伝書にも、同様のことを記し、「野山に有る体に可入也」としている。花を立てるという言葉が、技術的なものを意味するのに対し、自然のままに無技巧に入れる物を云ったと思われる。
 しかし『仙伝抄』も『文阿弥伝書』も、厳密に云って、果たして利休以前に、現在伝わっているままのものが出来ていたかは、それらが後世の写本しかないから、断言できない。
 それはともかく、『花をいける』ということは、ただなんとはなしに自然の草花をとって来てあり合わせの雑器に入れておく場合も含んでいる。これは日本人にはありふれたことであって、室町末の一般庶民も変わらなかったろうが、それをそのまま花道と考えるわけには行かない。利休も「花は野にある様に」とは言っているが、それはなんの考えもなしに、いろいろの草花を入れたものとは全然違う。

 小座敷の花ハ、必一色を一枝か二枝軽くいけるがよし、もちろん花によりてふは〜といけたるもよいけれと、本意は景気をのミ好む心いやなり、四畳半に成てハ花により二色もゆるすへしとそ(『南坊録』)
 
 利休は、三畳、二畳半、二畳とますますわびた茶室を作り、床も荒壁のままにしたから、茶室の雰囲気は、入れる花によって一ぺんに変わる。しかも利休は、花の美に対しても、室の雰囲気に対しても極めて敏感だった。小座敷に花を二種、たとえば梅に椿を入れると、梅に惹かれ椿に惹かれて、心が落ち着かないし、室の雰囲気も乱れると考えるのである。彼は自然や器物の語る言葉に非常に敏感であった、異質のものの合唱を聞いて、その美を楽しむということはなかった。彼は、物の最もかすかな言葉をも聞きたいために、ますます狭い茶室を作って心をすましたのであろう。
  その果は「細口に菊一輪」の如く、一輪を生けるようになった。「一輪生」については、『傀記』に、

 一輪ヲ生クルコト、ソノ理ヲ知ラズ候故、生て面白シト存ズルコト稀也…中略…惣ジテ一輪ヲ生ルハ枝ヲ生ルト合点スベシ。椿ナドノ花ノ枝ニ妙所ヲ得テ咲タルハ稀ナルモノナリ。好枝ヲ生テ其枝ニテホドヨキトロニ花ヲ入ルレバ好シ、根ジメナドニ花ヲ入レバマドノ中ニナルコト自然ナリト 
 
 とあるように、最も単純に見えて、一番難しいものなのである。利休は必ずや上手にいけたと思うが、利休の花の図は一つも残っていないし、『傀記』のような意見も残していないから、想像することも出来ない(『宗湛日記』に当時の茶花の簡単な図があるが、それは花道として少しも秀れたものではない)。その日の茶会の主題・季節・客によって、道具を選択し組み合わせて、彼の意図・作意を表現したのである。利休の花は、全く彼の茶そのものであるから、その花だけを取り出して考えることは、無意味である。従ってこれを花道のほうからいうと、最も秀れたものと考えざるを得ない。それはともかく、利休によって草のタテバナの内のイケバナ的なものが、茶室花として深い意味を与えられたのである。それは又花道全体に対しても、その客観性―生ける花・花瓶・座敷の特徴―を認識することの、如何に大切かを教えたのである。




三 織部遠州の花 (大名茶の花)
 
 利休にとって、茶室にいける花は、掛物・花器・茶道具と否軸彼の芸術の素材であり、表現手段であった。彼の創造的天才は、それらの素材を自分の審美眼で発見し、又創作した。彼は、日本の陶器を花瓶として使い或いは新しく焼かせ、雑器に美を発見して花瓶とし、籠花入を用い、竹花入を創造した。又雑草の美を発見した。
 
 十年を過ぎ茶の本道棄るべし。すたる時世間にては却って茶湯繁盛と思ふべき也。悉世俗の遊事に成てあさましく成果る事今見るが如し。其時に至つてながらへたらば、易ひとり此草庵の茶を楽しむべし(『南坊録』)
 利休は時代の動きをよく知っていた。利休にあっては、草庵の茶が終わってから、書院やクサリの間で又、茶をやるということは到底許せない。しかし時代は豪華絢爛から優美へと向かっていて、草庵の茶とともに書院の茶をやり、どちらかといえば、わびはその薬にすぎなかった。利休が茶道でないといっても、歴史家はこれを変遷として捉え、そこに時代の必然的な動きを認識しなければならない。
 利休から織部遠州・石州・宗和への方向は、草庵茶から書院茶へ、わび茶から大名茶へである。我々は花の面からその特色を抽出してみよう。
 織部はその好みである織部焼を見ても分かるように、豪華で力強く、個性的であるが、それだけ美が表面に目立ち勝ちであった。彼が造形的な感覚に秀れていたからだろうが、すべてが技巧的なのである。

「古織は第一花が上手」(『松屋会記』)といわれたり、「トカク花ハ織部ニハ不及トコロアリ、籠ノ花生ニ牡丹ヲ五輪マデ入ラル」(『傀記』)

 と遠州が云ったという話が出来たりするのは、彼の花が、相当技巧的であったことと、豪華なものであったことを思わせる。勿論これらの花は、書院の花であったろう。利休の茶室花とは非常な違いである。籠に牡丹を五輪生けたのが事実とすると、大覚寺の金碧の襖に、牡丹ばかりを画いた、狩野山楽一派の桃山障壁画に通ずるものである。
 織部の弟子小堀遠州は、同じく大名であるが、公家社会との交わりが一層深かった。その茶には、派手な華やかさと和様の優美さが加わっている。彼の作ったと伝えられている桂離宮は、桃山時代書院造りが、茶室建築の影響を受けて、数奇屋住宅となる始をなすものである。彼の茶も、書院茶というより、数奇屋風の茶といえよう。それはかれの個性であると同時に、寛永時代の特徴である。
 遠州の花がどのようであったかを、根本史料とはいえないが、「小堀遠州茶之湯置合之留」(『茶道全集茶人篇』)によって検べてみるに、
「竹二重切入椿水仙」「花入一重切大梅椿」「古銅象耳花入藤梅」「古銅四耳花入牡丹椿」「竹一重切之節花入牡丹山吹」
 の如くである。これは比較的派手なものを選んだのだが、それにしてもすべて二種の花を合わせている。特に藤に梅。牡丹に椿、牡丹に山吹というのは、利休でなくても、あまりに派手だと思える。利休の茶室花の精神からは大分違いものである。
 以上のように織部遠州茶の湯の花は豪華で派手である。これは書院茶の花としてなされたためであろう。しかしそれを花道作品として考える場合、近衛予楽院が

イカ織部ニテモ五輪(牡丹)マデハ心元ナシ」

 といったように、深い思想や正しい技巧があったとは思われない。