うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ピーターパン・カードさん(豊橋商工信用組合さん)からの寄付と、【急性の精神分裂病患者を治療する際、私たちは幼い子どもを治療していた児童分析家とまったく同じ立場にいるということを覚えておく必要がある。】と、サリヴァン


 今日は、休みでしたが、確認しないといけない書類があったので、朝現場で掃除・洗濯のお手伝いをして、ジムが開くまで、マックでオレンジジュースを飲みながら本を読み(笑)身体を追い込んで(今日はいつもより追い込みましたW)、利用者さん宅へ書類を持って行ったり、事務所に入ったりしていたら、親分から連絡が入り、ピーターパン・カードさん(豊橋商工信用組合さん)からご寄付を頂いたと電話がかかって来ました。小さな法人には、本当に助かります!ありがとうございました!




 下記は、マックで読んでいた箇所です。
読んでいて、以前読んだサリヴァンを思い出したので、一番下においておきます。



原初的羨望
 〜彼の自己と対象の混合あるいは混同は、観察者としての私には明白だった。分析のこの時期には、彼は自分が超自我を内側に保っておくことが決してできなかった。迫害不安が増大すると、彼はいまだ超自我を排泄していたことがしかし、彼のふん便の山を食べる空想やその山と遊んだり、選り分けたりすることは、彼が自分の葛藤を抑うつ水準で取り扱おうとしていることを示しているようであった。

急性の精神分裂病患者を治療する際、私たちは幼い子どもを治療していた児童分析家とまったく同じ立場にいるということを覚えておく必要がある。もし両親がそう望むならば、彼らが治療を妨げたりが中止したりすることをやめさせる方法はない。 それまでのところ改善はまだ安定したものとはなっておらず、緩やかなものであった。しかしながら、分析はこれまでのところ不完全ではあるが、明らかに患者の迫害不安を減少させ、自我を分割させる過程も減退していたと私には思える。この結果、抑うつが表面に近づいてきていることはより明らかであったし、それは超自我の迫害的な性質が軽減してきていたことと一致していた。
 ここで私は、重症の精神分裂病患者では、精神分析がうまく進んでいても状態の変動が当然あるものと考えられなければならないということを強調したい。しかしそれにも関わらず、私がたった今論じたようないくつかの要点は、精神分裂病患者の進展を長い期間にわたって判断するクライテリアと考えることができる。着実な改善は、緩やかに迫害不安と自我分割を軽減させていくことと、外界と内界に良い対象を保つ能力が増していくことを意味する抑うつ水準で葛藤を取り扱う能力が増していくことによる。このような変化は超自我にも影響を及ぼし、その結果、超自我の陽性の特徴がもっと顕著になってくる。






結論
 〜その患者の適応は良くなかったが、別のとても憂慮すべき症状を発展させていた。私たちが彼の病気の上部構造を分析した時、彼の改善と協力は外界に対する恐怖のせいであり、彼はずっと空想上の迫害者を宥め続けているということが明らかになった。その親切な医者は彼に迫害してくる人物だった。そして、それまでの治療と私との治療の初めの部分は、主に宥和とハッタリばかりが続いていた。元気づけによって強化されてきたこの態度を打破するのに数年かかった。長い分析の末、この患者は今ではほとんど正常な人であり、治療の終結した1947年以来ずっと健康である。 私は全ての精神分裂病患者に中核的なハッタリ状況があるとは思わないが、ハッタリ状況が非常によくあることだとは思う。元気づけによる方法の成功を判断する際に、あらゆる精神分裂病患者は繰り返し自分自身と彼の超自我を治療の中に投影する、ということを人はまた心にとめておかなければならない。治療者が変わらず親切なままでいるという事実は、精神分析的状況と精神療法的状況の双方にとって重要である。元気づけを使用する精神療法家は、患者の危険な超自我と危険な自己についての不安を一時的に軽減する。 治療者が「私はあなたを愛していますし、あなたのめんどうをみます」と言う時、「あなたは悪くないし、私は報復しません」ということと、さらに「あなたはあなたの悪いもの全て私の中に入れることができます。私はあなたのためにそれを処理してあげます」ということも彼は示唆している。これがうまくいくことがあろうし、患者の感情を治療者が無意識的に理解し受け入れることは、元気づけが有効であるためには欠かせない。しかしながら、このような患者が果たして治療者から自立するようになれるかどうか、また彼が果たして自分の人格を発達させることができるかどうかは疑問である。精神分裂病精神分析において、私たちも、精神分裂病患者は彼の超自我と彼自身を絶えず分析家の中にいれる必要があるという事実を受け入れなければならない。けれども、患者がしだいに彼の愛や憎しみと彼の超自我の双方を自分自身のものとして受け入れることができるようになるまで、分析家はこの状況とそれに関連した問題を解釈するのである。そうなって初めて精神分裂病者の分析が成功したと私たちは考えることができる。




 以下は、サリヴァンです。


第十章 臨床単位は治療における引照枠の一つである

    精神病における〈診断〉対〈予後判定〉 

〜今話した奇怪千万なことには、少し解説が必要であろう。まず、精神科医といえども自分たちの〈定式化機械〉なるものを通って出てくるものしか知らないわけではなく、はるかに沢山の事が分かってはいるのだ。彼らは、〈ふつうは意識的思考のデーターとならないために定式化できないデーター〉の中から一部だけを摘み上げる。

 また第二に(これはけしからぬ面だ)精神科医は、自分がその眼で観察したと思い込んでいる症状なりパターンなりのほんとうの意味について、すごく強烈な偏見を産みだしている。いったん彼らがそのレッテルを貼り着けてしまうと職業的面子がかかってくる。彼らは面子を守り為に闘い、時にはその悪い影響が患者に及んで、患者は目に見えぬほど少しずつ次第にレッテルに合う方向に動かされていく。偏見のこわさは、精神科医が知らず知らずのうちに〈偏見によって重要だとされているもの〉を[まず]探すようになり、この〈偏見による〉診断を確定する上での価値がきわめて高い症状が出てくるのを待ち呆けて、患者に関する、まことに重要で有用なデーターのほうは実にあっさりと見、かなり強い診断的偏見をもってしまうと、その正味の結果は、実に重要な情報をごっそり見逃すことになりかねない。そして見逃がされたものはいつまでもそのままになってしまうことがありうる。精神科医が診断におのれの面子を賭けるようになると、たとえば自己流の臨床診断によって〈水準低下を来すであろう〉と見立てられた分裂病者には、〔水準低下を起こしてもしかたないという〕冷淡な態度をとりつづけるだろう。それが現実に自分の病気の予後に対する患者の絶望を強める結果、患者がほんとうに水準低下を起こしてしまうことになりかねない。

 われわれの文化は周知の如く、診断をたいそう重視する。また患者の家族も、われわれの文化パターンに従って、医者がその病気に一箇のレッテルの名をあてはめられるかどうかを非常に知りたがる。そのため一部の医者は〈これだ〉とばかり、もっともらしい臨床診断の体裁を作ろうとする。私にはそれはあまりよろしくないと思う。

私は〈何が起こったか〉よりも〈〔これから〕何ができるのか〉のほうにずっと関心があるからである。(反対する理由はこれだけではないが)そして〈何ができるか〉ということの内容は特定の名の臨床診断に依拠せずに決定できる。臨床診断というものは、〈精神医学の問題を大幅に単純化する〉〔という本来の目的〕よりも〈公衆の要請を顧慮してまた医者の専門家としての面子を保つために〉存在している、と私は思う。