うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

タグ続報(笑)と、フロイトと骨董品


 昨日のタグが、乾燥しました。

 夜勤明けで帰宅したら、親分がカットする準備をしていたようですね。

 追加注文もある様ですが、バッグも待機しています。
いよいよ開始です!





 またまた、『劇的な精神分析』からのアップです(笑)
フロイトが骨董品大好きと知ったので(笑)そこに触れている箇所のアップです。
「抵抗」にも引掛り、勉強にもなりました。

Ⅷ「抵抗劇」−治療記録から
 2 治療抵抗について
 以上のような議論もすでにあるくらいだから、裏と本音のために、よそゆきの衣装を脱いで素顔や生の姿に戻ることを治療室=楽屋における目標とするのは、私だけのひとりよがりではないだろう。しかし、まずそうすることへの抵抗の克服があってこそ、次の段階で自分の素顔を見つめるとか、自分のことをありのままに考えるとかが始まるのだ。しかし、それが実際の治療では簡単ではない。中身に不用意に触れようとすると、たとえば冷たい風でコートを脱がそうとするならむしり服をさらに着込まれるという戒めは寓話『北風と太陽』の通りなのだ。「服を脱ぎ化粧をおとす」、そういう方向づけに抗う力を精神分析では「抵抗」と呼び、治療に入る前段階を強調するために「治療抵抗」と呼ぶことがあって、技法論的にこの始まりの取り扱いこそ最優先となる。個の言葉「抵抗」は日常語であり、たとえば強迫神経症「鼠男」のフロイトの治療記録を読むなら、部bb関者によって何度も使われている。
 次の引用は、患者が東洋で行われる恐ろしい刑罰のことを語り始めた第二セッション(一九〇七年十月三日木曜日)の途中である([ ]は分かりやすくするため訳者が挿入した物)

 ここで彼は話を中断して立ち上がり、詳細を話すことは勘弁してほしいと私に頼む。私は彼に次のように断言する。自分は決して残酷さを好む人間ではないし、決して好きで苦しめているわけではないが、私の意のままにならぬことを[贈物をするように]してあげることなどできるはずがない。そんなことができるなら、二つの彗星をプレゼントしてくれ、と私に頼むことだってできよう。抵抗の克服こそ治療の命ずることであり、この命令をわれわれは無視したくてもできない、と。(今回のセッションの初めに、私は「抵抗」という概念について彼に話しておいた。その時彼は、自分の体験を打ち明けるには克服しなければならないことがたくさんあると言っていた)それでも、彼がそれとなく口にした事柄の真相を言い当てるためなら、できるかぎりのことをするつもりだ、と私は続ける。[そして]彼が[先の話で]いわんとしているのは串刺しの刑のようなものか、と尋ねる。いや、そうではない、罪人は縛られるのだー彼の言い方が曖昧だったので、罪人がどんな姿勢をとらされているのかすぐには分からなかったーその罪人の尻の上に鉢がかぶされ、そのなかのねずみたちが押し込まれ、そのねずみたちはー彼はまた立ち上がり、恐怖と抵抗を示すあらゆる素振りをしてー穴をあけていたのだ、という。そこで私は「肛門の中に」と補足してもよいと判断した。

 このやりとりは、フロイト自身の論文でも引用され、読者によりずっとひはんされてきた。批判の矛先は、抵抗を辞める様に説得し、これを命じる権威的なフロイトの態度、そしてさらには「肛門の中に」と、患者が言えないことをあっさり分析者が口にしてしまうところに向けられてきた。つまり、分析者は患者に抵抗させないようにしている。こういう態度では、積み重なると「包囲されている。無駄な抵抗をやめて出てきなさい」という具合になって、「犯人」を追い詰めていくことになるだろう。
 それで、患者が無意識の罪悪感を意識して取り扱うことに疑問を差し込むときにも、フロイトは次のように説得している。フロイトの部屋が数々の骨董品で埋め尽くされていたことは有名だが、抵抗を示す患者に対して分析者はその骨董品を指差して、無意識内容の意識化の意義を説明する。精神分析の営みを考古学的な発掘作業に喩えていたフロイトは、無意識化されたものは埋められたものと同じで不変だが、それは取り出すことで処理できるようになると言う。

患者:呵責の念、つまり罪責意識はもっともなのだというご説明ですが、いったいそのことがどうして治療に役立つのでしょうか。
フロイト:そう説明しただけで治療効果があるというのではなく、呵責の未知の内容を発見することが治療に役立つということです。
患者:ええ、わたしのそうだと思います。
フロイト:意識的なものと無意識的なもの、意識の衰弱と無意識の不変性との区別についてですがーと私は[言って]私の診療室にある骨董品を指し示すーこれらは、出墓品の数々です。埋没していたからこそ保存が可能であったわけで、ポンペイの滅亡は発掘されたときからようやく始まるのです。


 注目すべきは、ここで「抵抗する患者」と「抵抗を取り扱う分析者」の関係が治療関係のなかで展開しているというのに、この抵抗に対し否定的なフロイトが、その治療関係(転移)を取り扱っていないことである。現代精神分析の「今・ここhereandnow」の関係性を理解するという立場からは、抵抗をやめとというよりも、その関係の分析的理解の不足、つまり陰性転移の取り扱いが不足しているのが際立つのである。しかしながら、抵抗克服を説くフロイトを相手に患者は「……に抵抗する」と言う関係性を治療の場で激化しているとは言える。そしてこのとき、骨董品を指差すフロイトの治療室とは、さながら抵抗劇の劇場なのである。


 


 フロイトと骨董を検索したら色々と出て来ましたので、おもしろいなと思った二つを割愛させて頂きアップさせて頂きました。羨ましい(笑)し、是非ともロンドンに行きたいなと思いました。

 まずは
さんのサイトからです。
http://guide.travel.co.jp/article/6692/


「世界一有名なカウチ」がここに

写真:Hiroko M

博物館の目玉は何と言っても、フロイトの数々の患者が横たわってきたカウチ(寝椅子)。書斎にあるこのカウチは、しばしば「世界一有名なカウチ」と言われます。フロイトは患者に、頭に浮かんでくることを自由に話させ(自由連想)、その内容を元に精神療法を行いました。ロンドンに移住してからも、何人かの患者を診ていたフロイト。正にこの場所で、精神分析は行われたのです。フロイトは、カウチの左側にある緑のベロア調の椅子に腰かけ、患者の視界から外れた状態で、自由連想に耳を傾けました。フロイトが提案したこの手法は、今日も心理カウンセリングの場で広く使われています。

ちなみにカウチを覆っているのは、ペルシャ絨毯。実は20世紀に入るまで、ヨーロッパにおいて高価なペルシャ絨毯を床に敷くのは稀で、壁に掛けたり、家具に被せるのが主流だったのです。


まるで博物館の中の博物館。
フロイトの膨大なアンティーク・コレクション

写真:Hiroko M

フロイト博物館に来て、最も強烈とも言うべき光景は、書斎にある二千点以上に及ぶアンティーク・コレクション。古代エジプト、ローマ、ギリシャの他、中東や中国の骨董品が、書斎の隅々に飾られており、そこはまるで博物館の中の博物館。ほとんどがフロイト自身が、ウィーンの骨董屋で購入した物で、その価値は、超一級品からガラクタまでピンキリ。フロイトはなんと、心理学(精神医学)よりも、考古学の本を多く読むほど、古代文明に魅せられていたのです。フロイトは自らのアンティーク収集癖について言及したことはありませんでしたが、無意識的に、考古学を、「深層心理から記憶を掘り起こす行為」のメタファーとして使っていたのかも知れません。

フロイトは、ロンドンに越してきた時には既に上顎癌に苦しんでいました。最期は二階の寝室に行くこともなく、一階の書斎で過ごし、ここで静かに生涯を閉じたのです。


次は『収集家としてのフロイト展』よりです。
http://www.kajima.co.jp/csr/culture/freud/greeting-j.html
『収集家としてのフロイト展』
日本おける展示会開催に当たって より
ロンドン フロイト博物館館長 エリカ・テイヴィス

ジークムント・フロイトとそのコレクション

ニコラス・リーヴス
 今回のロンドンにあるフロイト博物館からの、日本初公開の古美術品の展覧 会は作品そのもののおもしろさだけではなく、これらの古美術品のコレクショ ンが精神分析の祖であるフロイトによって収集されたものであるという点から も多くの方々を驚かせるに違いありません。フロイトは様々な角度から細かく 研究されてきましたが、彼の考古学への情熱や飽くことを知らない古美術の収 集癖については、今日に至るまでほんの僅かしか公にされていないフロイトの 複雑な人格の一面のあらわれであります。
 フロイトの生活は、ハインリッヒ・シュリーマンのトロイの発見や、ハワー ド・カーターのツタンカーメン王墓の発見というようなイベントに世界中が考 古学に興味を持ち、大騒ぎしたイベントに囲まれていました。フロイト自身の 考古学に対する関わりは遥か昔の家伝の聖書に遡ることが出来ますが、その聖 書は異国の異様な神々や奇怪な神殿のイメージが装飾的に描かれているもので した。 これらのイラストレーションは、フロイトにとって死ぬまで続いた考古 学への妄想となる印象を残しました。またこの妄想はフロイトの患者達も共有 することを強制させられました。古美術品の詰まったケースに囲まれて、精神 分析の治療を受ける人は、少なくともウィーンでは、アブシンベルにあるラム セス・世の神殿のグラビア写真のしたで、あの有名な寝椅子にもたれ掛かり魂 を開いたのでした。要するに過ぎ去った古代はフロイトの情熱だったのです。 フロイトが彼の友人のオーストリアの小説家であるステファン ズバイグに1 931年に認めているように、"私は実際に心理学よりも考古学の文献の方を よりたくさん読んでいる。"
 1938年までフロイトは79年間ウィーンに住んでいました。ユダヤ人と して彼は、ナチスによる占領の後、そこでの生活が急激に困難になったことを感 じました。開業することを妨げられたり、かれの著書を焚書されただけでなく、 ある時には実際に突撃隊によって、かれのベルガッサ通り19番地 (Berggasse 19)の自宅にまで武力を行使されて脅かされました。 この老いた彼の神経は、遂にゲシュタポが彼の娘のアンナを短期間拘留したと きにずたずたになってしまいました。彼女の釈放に際してフロイトは、彼等が 亡命することを堅く決意したのでした。彼の四人の姉妹たちは、亡命の旅をす るには歳をとりすぎていたので、そのまま彼の地に留まったのでした。後に彼 女達は強制収容所に送られてしまいました。
 フロイトの友人達は、結集し出発を早めることを手助けしてくれました。 彼の国際的な地位と、そして全く思いもかけなかったナチスの海外移住の公式な 許可への共鳴によってフロイトは本や家具だけでなく、今まで長年にわったて 収集してきたエジプト、中近東、ギリシア・ローマ、そしてオリエント(中国、 インドその他)の古美術品の数々も一緒に持ち出すことが可能となったのでし た。これらの古美術品は、フロイトの崇拝者や同僚達によって購入されたハム ステッドのメアスフィールド・ガーデンス20番地の新しい家に移されました。
 収集とは中毒症状のようなもので、フロイトは自分のコレクションに決して 満足することが出来なかったのでした。 彼はこれらの品々を広範囲に渡り、 時代、地域を問わずあらゆる機会に手に入れるようにし、1938年には次の ように彼の思想を概説しています。"コレクションに何も追加するものがなく なってしまったら、そのコレクションは死んでしまったも同然である。"フロ イトの何もかもかまわず収集する性癖は、彼のコレクションをあまり魅力のな いものにしてしまいましたが、何年かのあいだには幾つかの第一級に重要な作 品を収集することが出来ました。 そのうちの幾つかはウィーンの、例えばロ バートラスティグのような古美術商より手に入れた作品で今回のこの展覧会の ハイライトとなっているものです。見事なブロンズの古代エジプトの神々の像 ーオシリス、イシス、そして子どものホルス、イムホテップやベス 磨耗した 肩を持つ中国のテラコッタギリシアの壷、青銅製のヤーヌスの頭部のついた 油瓶そしてフロイトの個人的な印であるローマのインタグリオ、これは後に彼 の娘のアンナによってブローチに作りなおされました。フロイトの古美術品は、 彼にとっては自分の子どもであり、それら総てを心より慈しんでいました。学 問の神、トト神である聖なるヒヒの磨かれた表面は、フロイトが話をする時に 最も気に入っている品々を手で弄んでいた様子を、私たちに思い起こさせてく れます。
 このことについての直接の証拠はなにもありませんが、フロイトが最初に収 集を始めたのは彼の父ヤコブの死に起因したものであるという言われています。 そして時が経つにつれ、彼の古美術品は彼の職業上の孤独な年月により必要と された慰めを与え、沈黙している聞き手達は年月を重ねていくことによる知恵 と支えを与えました。考古学での 地面を発掘するということは、フロイトに とって人間のこころの中を発掘していくことへの適切な暗喩となりました。 すなわち彼が自分自身を取り囲むようにして置いた古美術品は彼の思想の中の 真実を地中から発掘して見せました。つまりこれらの古美術品が彼の思想にア イディアと確信を与えただけでなく、孤立していた彼を励ましていたのです。
 ジークムント・フロイトは、今日フロイト博物館となっている彼のハムステ ットの自宅で、1939年9月23日に亡くなりました。コレクターは最後に は、古代ギリシアの壺に納められ北ロンドンのゴーダス・グリーンの納骨堂に 眠っています。



 皆さんと田原の夜店に行って来ます!