うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

プリント開始と、「合い/合わない」が生まれるところ



バッグのプリントを開始しました!
今日は道具などを調整しながらで、23個だけやらせて頂きました。
 調整ができたので、がんがんやっていきます!

『劇的な精神分析』から、またまた引用です。
きりがないのでこれで終わろうと思いますが、ふと思い出してアップしてしまったらごめんなさい(笑)

Ⅺ 「合い/合わない」が生まれるところ
 3 楽屋の移動
  再び問う。何ゆえ、これほどまでに人生を演劇に喩える比喩が有効なのか。
 イイ顔、イイ行いをして、イイ子でいるというのは常識的な周囲からの期待だろうが、それとは遠い「素顔」でいられたのは、発達段階ではまさしく胎児の頃だけであろう。生まれてからは、少なくとも自分を作ることができるようになると、素顔の自己は自分の奥にしまい込まれる。
 作られた自分とは、表向きに作られていて、ときに固く、強固で、「性格の鎧character armor」(W・ライヒ)と呼ばれることもある。型にはまった、まったく与えられた筋書き通りに役を演じるとき、あるいはそれに大きく影響された反対の役を演じるとき、そしてその演技が繰り返され陰に陽に成功するとき、役はまさしくやめられない「はまり役」となる。イイ子、優等生、不良などは固定されやめられなくなり、役が性格となるのだ。
 ペルソナとは、ラテン語で古典劇において役者によってつけられた仮面(マスク)を意味する。それに由来するパーソナリティーとは、表面的な外向きの特徴という意味合いで使われることが多い。当然パーソナリティーは外面が問題になりやすいが、それはたとえ内なる事情を犠牲にして環境の陽性に応じている「滅私奉公」であっても、それなりに内側の事情にも応じているはずである。つまりパーソナリティーは内外の諸事情を織り込んでいるものであり、内外の間にあって中間的で両面的なのである。
 日本語でないものをこれ以上使うことはないだろうが、性格問題を考えるために舞台の仮面的要素を考慮するのは、まさに古典的な発想を踏まえているのである。前田重治藤山直樹らがよく引用する、世阿弥の『花伝書』における役者のためのアイデアも、多くの読者はすべて人間一般のこととして読んできた。観客の前に放り出された役者のように、何の後ろ盾もなく自然な演技を求められるという人間の悲劇は、むしろ役者の悲劇というより人生の悲劇なのである。だからそれは決して現代的な問題ではないのだが、現代的といえるのは、裏と表の解離がますます明らかとなり、この種の比喩がさらに力をもつようになって、役者や演出家ら、ステージの専門家たちから生き方を学ぶという意識が増してきたことであろう。
 そこで、舞台効果の最大の価値である「観客の感動」という問題に触れておきたい。「合い」の感動は、舞台で、役者が化粧して素晴らしい演技をみせれば、外部からのニードに役者が応える形で生まれる。それは演技と期待の一致である。多くの場合、仮面の演技が外界の期待に合致して感動が生まれることがあるのだが、それでは、感動するのは観客だけかもしれない。役者はいちいち、昨日も今日も明日も繰り返される同じ筋書きの演技には深く感動しないかもしれない。そして、名演技の裏で、役者自身は老い、傷ついて、泣き、死にかかっているかもしれない。サーカスでは、猛獣使いのスターが怪我をしてピエロになり、笑わせる道化の化粧の下に涙がある、などというのはよくある現象なのだ。
 だから、役者にとって重要なのは「稽古場の感動」である。観客のいないところでの感動であり、練習、リハーサル段階での感動である。内輪の感動だ。そこでは、役者たちが泣いたりわめいたりしていて、実は真に情緒的になり、出演者たちがもっとも感動して、また本気で抱き合っているのは、そして歓喜にむせぶのは、主に楽屋においてなのである。
 私は、ときどき音楽をやる。中身が完成されていく、あの練習、リハーサル、音あわせ、通し稽古の時間は、公演そのものより長く、何度も繰り返され、心理的には本番よりも、あるいはそれと同じくらい大事である。そこでは、最後のステージに向けて、台本は書き直されて、やり直されていく。そこが一番苦しいが同時に面白いのに、絶対公開されないし、また、そこが一番だとはけっして口外されてはいない。