うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

梅雨明けと、罪悪感をめぐって

梅雨が明けましたね!
しかし、今日も暑かったですね......。
ショートの方は暑さにめげず、散歩に行きたいと言われ、午前と午後。沢山歩かせて頂きました!
目的地はショッピングセンターや、文化会館ですが(笑)
暑すぎるので、クールダウンしてから、うたたねに戻るを繰り返しました。

 渥美の送迎が終わって帰宅後、クライン派の発展を読ませて頂きましたが、頭の中が『最後の授業』に染まっているので(笑)一回だけのつもりが、二回目になりました(笑)
 思い出したらまた、引用させて頂くかも知れません。
 現在読ませて頂いている箇所も、フロイトなので、余計に頭から離れないのかも知れませんね(笑)

『最後の授業』北山修
罪悪感をめぐって
 これがどのようなことかをご紹介するにあたって、私は「罪悪感」というテーマを取扱いたいのです。私は最近、罪悪感というものに非常に関心を持っています。精神分析というのは、実は罪悪感の心理学と言い切ってもいいのではないかと思われるほど、フロイトはたいへん長くこのテーマに取り組んで、終生これに苦しんでいたように思います。
「無意識的罪悪感」という言葉もあって、罪悪感の発生について、精神分析は多くを語ってきました。
 罪悪感についての代表的な二人の論客が、フロイトメラニー・クラインです。この二人の理論を、背後にあるものとしてすこし知っていただくと全体が分かりやすくなります。
 フロイトは、私たちの用語で「超自我」、一般的には父性、あるいは第三者、第三項といわれるものに着目しました。近親姦的になりやすい、つまり密着型のやりとりになりやすい母子関係に割って入る存在である父親です。お父さんに叱られるとか、威嚇されるとか、お父さんが怖いからと思うことで、密着型の母子関係は断念されるのだ、と。フロイトは法や掟の起源も超自我として位置づけて、父性というものが人間の社会にとっても大事であると強調したのです。フロイト精神分析理論には父親のことがとてもよく出てきます。
 もうひとつ、私がロンドンで知ってたいへん感動したのが、メラニー・クラインの理論です。クラインは、愛している者を攻撃していた、愛している者を憎んでいた、愛している者を傷つけていたということに直面して、あるいはそれに気づいて、わたしたちは「悪い」と感じるのだ、と言ったのです。
 これについては、母親のことがもっとも代表的です。お母さんをすごく愛してしまう、感じてしまう、思ってしまう。この両面性に直面するときに、私たちは「ああ、悪かったなあ」と痛感するという理論です。私はこの理論をほんとうに知ったときに、なんとすごい洞察だろうと感じました。つまり、罪悪感は外側から押しつけられるものではなくて、内側から生まれるという話なのです。心の奥底から、私たちは悪かったと思わざるをえない。
 『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンは、銀の燭台を盗んでしまう。盗んでおいて、神父さんに許してもらった上にさらに少年を傷つけた後で「悪かった」と感じる。決して憲兵に叱られたから「悪い」と感じるわけじゃない。愛している者を傷つけたことに直面して、私たちは悪いと感じる。この二者関係のなかででの罪悪感の発生論が、私を深いところで捉えました。私はこれにハマッたといってもいいですね。
 これを図式にしてみたのが図1です。

メラニー・クラインの理論では、お母さんにふたつの乳房があることを比喩的に使って、良い乳房と悪い乳房の両方が合わさるところ、つまり、好きだけれども嫌いだという、あるいは愛しているけれども憎んでいるというところの領域で、私たちはアンビバレンツを経験するとしています。「アンビバレンツ」とは「二律背反」という意味で、両者が両極に引き裂かれている状態です。その両者が重なるところ、あるいは統合されるところといえるかもしれませんが、そこで私たちは罪悪感を感じる、という図式です。
 三者関係、三角関係でのフロイトの罪悪感を図式にしたのが次のものです(図2)。

父が母と子の間に入って私たちを叱責するので、良いと悪いの両面性に直面して、自分が悪い子であると同時にいい子である、いいこでありたいけど同時に悪い子であると思い知って、私たちは「悪かった」と感じる。実に深い深い理論です。
 このような、理論と自己分析との出会いが両輪となって、私を30年間、神話や昔話の分析に向かわせました。