うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

蓮と『最後の授業』北山修


 花器や花の本数や置き場所等、紆余曲折?がありましたが(笑)蓮は結局、香港のホテルにでもありそうな形になって玄関を飾ってくれています。


 色々な事があり、準備に追われていますが、隙を見て(笑)一冊読み終えました。600頁あるのは無理ですが(笑)『最後の授業』を楽しく読ませて頂きました。
 こちらも勉強になる箇所ばかりでしたが、無理やりブログの一回分に載せようと、端折ってしまいましたが、アップさせて頂きます。
 堅苦しい道徳なんか授業でやるよりも、精神分析に精通している方々が、フロイトやクライン、ウィニコットサリヴァン等を誰でも分かるように本にして、それを授業でみんなで考える方が、今の世界中で起こっていることが少なくなるような気がしていますが、精神分析家の派閥争いも凄いみたいなので、それがなくならないと(一番冷静にならないといけない人たちが)戦争やテロ・犯罪もなくならないのかなとも同時に思ってしまいました。それが人間なのかもですね(笑)

『最後の授業』北山修
Ⅰテレビのための精神分析 第3回
 〜マスコミに出ることが素晴らしいことなのか、広く売れることが素晴らしいことなのか、紅白歌合戦に出ればいいのか、ほんとうに。そんなことはない。私にとってはライブハウスの感動のほうが絶対に感動です。数字に巻き込まれちゃいけない。少なくとも、カウンセリングをやろうという人たちは。相手は一人です。一人を感動させればいいんです。

Ⅱ最終講義〈私〉の精神分析―罪悪感をめぐって
 〈私〉を支える環境
 そしてもうひとつ、私が学んだものがあります。それは、さきほども出てきたウィニコットから教わったことです。彼らは対象を求める子どもの心と、それに応える対象としての母親というものに着目し、描き出しました。まず対象としての母親の機能が大事である。おっぱいを差し出したり、欲求不満に応えたりしなくてはいけないから、いいお母さんだったり、悪いお母さんだったりするんですが、同時に、環境としての母親はそのアンビバレンツを経験している子どもの自我を支えていく。これは精神分析にとどまらずあらゆる精神療法に共通する治療者の機能も同じであると私は思います。
 患者のアンビバレントな思いの対象になりながら、それを経験し生きながら、世の中を渡っている患者の〈私〉の自我ニードを環境として支える。これに対してイドニードという概念では、イド(エス)は「欲しい欲しい、いらない」という欲求不満と欲求の充足を求めるものですから、アンビバレントな関係が展開されます。しかしながら、それを噛みしめている自我の支えになることが私たちの重要な機能だと思うのです。これはまさに子どもに対する親の機能のひとつでありましょう。
 これに関する先行研究として、フェアバーンという精神分析家も紹介しないわけにはいきません。フェアバーンは、対象は良い関係と悪い関係として捉えられるといっています。(図37)対象関係のなかで悪い対象として描き出したのは、エキサイティング(興奮させる、惹きつけられる)でリジェクティング(拒んでいる)な、両面的なもの。しかし、良い対象においては、空気のように平穏で平凡で、ほどよい環境として子どもを支えていく、関係を支えていく、自我支持の機能であると言っていいと思います。

 これは私的なフェアバーン理解ですが、治療者には三つの役割がある。それはクライアントに愛されること、あるいは求められること。もうひとつはクライアントに嫌われること、あるいは憎まれたり不満を述べられたりすること。そしてもうひとつは、それを経験しているクライアントの自我を支えること。この三つは精神分析を超えた、多くの精神療法に共通する非特異的な要素だと思います。
 だから、今日お話しした、生き残り、物語を変えるつうのように、良いと悪いをなんとか渡そうとしている〈私〉のアンビバレントな対象となり、〈私〉が時間や空間を渡り歩くのを支える。これが〈私〉の橋渡し機能です。私という治療者は患者に求められていると同時に憎まれる。親というものはそういうものです。
 だから、、セラピストは、矛盾、二重性、不純を引き受けて、なかなか去っていかない。でも、去って行きますけれどね、今日ようやく。これ以上いると、「出て行けえ」と言われそう(笑)。

Ⅲ「精神分析か芸術か」の葛藤
 フロイトの中の三角関係
 〜彼の芸術や芸術家に対する思いを探るてがかりとしては、ルードヴィッヒ・ベルネという人の『三日間で独創的な作家になる方法』という本のことも忘れてはなりません。13歳の誕生日のプレゼントとして贈られたものらしいのですが、少年時代から後年にいたるまで所有された唯一の本となったようです。これが精神分析自由連想法の発見につながったのです。この本は実は「あなたが思いつくまま、まずは書いて、そしてそれを元に文章を練り上げていきなさい」というようなアドバイスをしているらしいのです。
 それで、私は単刀直入に言って、フロイトは作家になりたかったんではないかと思うんです。
 さらにもう一つ芸術家との関係ですが、1880年代の中頃の青年フロイトにとって、恋人マルタを奪おうとする恋敵が芸術家であったことが記録されています。一人はマックス・マイエルというマルタのいとこで音楽家です。シンガー・ソングライターみたいな人で、マルタに自作の歌を歌って聞かせたと聞き、フロイトは嫉妬したという記録があります。〜二人目の恋敵も芸術家であったとジョーンズの本に書かれています。友人でもあったフリッツ・ヴァーレ。「私は芸術家たちと科学的な仕事の細かいことに従事している者たちの間には一般的な敵意が存在していると思います。彼らはその技のうちにすべての女性の心を容易に開くマスターキーを持っているというのに、一方われわれは錠前の奇妙な構造になすすべもなく立ちつくし、それに合う鍵を発見するためにまず自分自身を苦しめねばならないことを知っています」と考えたというのです。
 この問題においてフロイトは自分をこの女性と芸術家との三角関係の中に位置づけて、展開しており、芸術家をライバル視し、科学者は苦労しているのに、なんとたやすく芸術家は人、それも女性の心の深層に触れることができるのだろうかと、羨ましがり、嫉妬しているという構図であります。〜

フロイトのアンビバレンツ
 〜しかしながら、逆に彼は芸術的な創造性が評価され、文学賞であるゲーテ賞を贈られます(1930)。一方望んでいたノーベル賞医学生理学賞では何度も候補者として推薦されていましたが、選ばれていません。そして特筆されるべきは1936年にノーベル賞文学賞で、ロマン・ロラン(自身が1915年の文学賞受賞者)によって候補者として推薦されていることでしょう。フロイトには、芸術家が嫌いだという面があったが、つきあった芸術家たちはフロイトが好きなようです。〜

フロイトが到着したところ
〜そして最後に付録のようなお話ですが、これを遠くで見ていたE・Hエリクソンの興味深いエピソードをご紹介して終わりたいのです。物心ついたエリクソンにはお父さんがいなかった。養父はユダヤ人の医師であった。しかし、自分が金髪だから、空想の中では、金髪の芸術家がお父さんではないかと、芸術家だったらあのお母さんとできてもおかしくないし、その結果生まれたんではないかと彼は考えていたと思います。最終的にその両方をフロイトの姿に発見するんですね。芸術家であり、なおかつ科学者で医者であるフロイトに。それでエリクソンフロイトのところで学ぶようになりました。
 私もそうですが、このなかにもそういう方が多いんじゃないかと思う。たぶん私もその両方をフロイトに見出して、惚れ込んでるんだと思うんですね。しかし科学を目指せば芸術が干渉し、芸術を目指せば科学が邪魔をする、という三角関係の葛藤は簡単には解決しないのです。