うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【無意識は死それ自体は知覚していない。しかし、のちに意識において死の観念として現れてくるものに等しい無意識の体験がある。】


今日も日中が賑やかだったので、2班に分かれ、おっちゃんたちアクティブ班は、浜松に行きました。
まずは、すきやさんで腹ごしらえをしてから


 寒さにも負けず、ガーデンパークで散歩してきました!


 戻って来てから、女子と池ノ原や椿公園の散歩に行こうと思いましたが、体調が良かったのが利恵さんだけだったので、利恵さんと散歩してお薄を頂いてきました。
椿公園の椿の開花はまだまだでしたが、和菓子が椿だったので、季節を感じて戻って来ました。

 おっちゃんは、明日の準備で早めに上がらせて頂き、機材を車に載せこんだりしていました。


 本は、今日も早めに出て、ファミマで読みました。
メラニー・クライン トゥデイ 3』が読み終わり、マーガレット・リトルの方に入りました。こちらも勉強になる本で、少しだけしか読んでいませんが、早く読みたいと思わせてくれる本です。メラニー・クラインの血が流れていました。



第9部  クライン派分析の応用
1,死と中年期危機
 エリオット・ジャックス
死の無意識的な意味
 自分自身の最終的と死という現実に出くわす中年期にそれぞれの人が――この現実の直面できようと否認しようと――どのように反応するかは、死との幼児期の無意識的関係に深く影響させる――メラニー・クライン(1940.1955)が見つけ出し。いきいきと描いた幼児期の抑うつ態勢のワーク・スルーの性質と程度に定めている関係である。クラインの結論をやさしく言い換えてみよう。 生と死との幼児の関係は、幼児に外界対象群、そしてこれらの対象の認知やそれらを頼り使う能力を彩る生の本能と死の本能の力関係とに依存している幼児の生きていく境遇において生じてくる。幼児期の抑うつ態勢では、愛情が優っている状況のもとで、よい対象群と悪い対象群とはいくらか統合され、自我はより統合されてくるし、よい対象群が確立され直すことが体験される。悲嘆の克服や安全さの回復は幼児にとっては生という観念と等価なのである。 しかしながら、迫害感が優っている状況では、抑うつ態勢のワーク・スルーは多かれ少なかれ妨げられる。償いや統合は失敗に終わる。無意識には、内的世界は、迫害を、向け破滅させようとしてくるむさぼり食われて破壊された悪い乳房を含んでいると感じらるし、自我自体が粉々となっていると感じられる。このように体験される混沌とした内的状況は、幼児には死という観念と等価である。 これらの不安へのひとつの反応、そしてその防衛として、不死という考えが湧き上がってくる。不死という無意識の空想は、理想化された豊饒な原初的な対象の破壊されない、ゆえに不死である側面についての幼児期の空想に相当している。これらの空想は彼らが和らげたいともくろんでいる混沌とした内的世界の同等なほどに迫害的である。それらは万能的にサディスティックな勝利を含んでおり、ゆえにその結果、罪業や迫害を高める。さらにこのことが、同様の完全なふるまいを求めるようになる完全な対象に依存すること柄耐えられない無力感をもたらす。 それでは無意識は死の概念をもっているのだろうか。メラニー・クラインの見解とフロイトの見解は同じではないようである。クラインは死についての無意識的な気づきを仮定している。フロイトは無意識はそうした気づきはすべて拒絶すると仮定している。表面的に受け取るなら、どちらの見解が正しいとは言えないようである。だが、二人とも二人の見解を文字通りに解釈することにしがみつくとは私は思わない。無意識は死それ自体は知覚していない。しかし、のちに意識において死の観念として現れてくるものに等しい無意識の体験がある。