うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

タグと、図書館と、アフォーダンス


 今日は、夜勤なので、朝久し振りに神戸館さんに寄らせて頂き、うたたねの鍵などを建具屋さんと打ち合わせして、一旦帰宅したら、親分がバッグに着けるタグをデザインしていて、シルクスクリーンに起こして摺れとの指示を受け、見本刷りをしました。
 日がないので大急ぎですね。まだバッグも来ていませんが、型はあるし、摺るのは本職なので100ぐらいなら余裕です!

 記念すべき、新しい作業場での初仕事です!



 神戸館さんに、アンドリュー・ワイエスのポスターが貼ってあったので、図書館に貰いに行ったついでに、本を借りて来ましたが、

 600頁ある、クライン派の発展に入ってしまっているので、隙を見て読ませて頂こうと思っています。
良い本なら購入を考えます。

 先程、返却した『現代精神医学批判』よりアップさせて頂きます。


第六章 アフォーダンスミラーニューロン
1、アフォーダンス
雪道のアフォーダンス
 雪国の朝、気温零度ちょっとなので雪が舞ったり氷雨まじりになったりする中を、早足で歩く。路面に目を凝らさないと転倒します。アスファルトの上にパラパラと雪を撒いたような表面なので、強く蹴っても大丈夫と思うと、下は前夜に凍った氷面でした。
 水たまりがある。底が見えるからジャブジャブ入ってもいい、と思ったらピカピカの氷結滑走面でした。積もった新雪と見て蹴飛ばしたら長靴を跳ね返された。池面が凍結した上に雪が降り敷いて鴨が歩いています。大人は乗れないが子どもなら乗れるかもしれない。
 「転ばずに歩く」を、始めた途端に地面のキメが私という二足歩行動物に多様なアフォーダンスを提示してきます(キメは漢字では肌理、文理などとも書く。物の表面の質感、絵画でいうマチエールのようなもの)。こんな寒い朝に歩こうなどと思わなければ、転ばずに歩くのに意味のある情報は、現れない。現れないが存在しないわけではない。環境の中にたしかにある。北国に来て六年だから、多少は雪道歩行に慣れて、早足で歩けます。こっちの技倆が上がったのにつれて、アフォーダンスも変化します。行為への慣熟と共に変化はするけど、環境の中にそれがあることは不変。
 「メルセデスには手が届かない、フォルクスワーゲンならなんとかなる」というのを、英語でキャンノット・アフォード、キャン・アフォードと表現する。このアフォードを名詞化してギブソンが造語したという「アフォーダンス」。クルマを買おうと思わなければ、このアフォーダンスは発生しません。一足で上がれる台の高さもアフォーダンス、壁をたたく寸前で止める距離もアフォーダンス。どちらも、それをしようとしなければ出現しない、環境の中の利用可能な情報です。
 人間なら「〜しようと思う」という意図的な表現になります。
 しかし、アフォーダンスという考え方は、全ての生物に通じるもので、佐々木さんの本にもいくつか例が示されています。ダーウィンが終生観察し続けたミミズの生態もその一つです。
 地球の全土壌を作ろうという意図をミミズが持ったとは言えないでしょう。土の中を前進するというブルート・ファック(生物が生来持っている原初的事実)と環境が出会ってミミズの生活が成立し、その結果地球上の土壌のうちの肥沃な部分が大部分出来ました。
 そうすると、そのミミズが食っている土壌とはミミズが作ったものだということになり、自ら作った環境を食べそれが体内を通過していることになりますから、個体と環境という二分法の思考は、ここではすんなりとは成り立たないようです。自他の別だってミミズの身になって考えるとよく分からない話になります。
 アフォーダンスは動物にだけあるのではなく、植物にもあり、蔓が伸びていって風に揺れているところが、細い木の幹のような物に当たると、右か左かに巻きつくという単純な運動で丈夫な蔓植物が育つ。この場合、ブルート・ファックは、風に揺れるのと巻きつくという事実だけです。
 人間の精神活動―心の働きーを考えるときに、古代の昔から二分法的な思考は連綿として続いています。知覚と運動というのもその一つで、私の専門領域でもしかり。知覚という入力路を通って世界のイメージが中枢に達して、そこで判断され、その判定に従って運動という出力系に転換する。これが精神医学の基礎となる知覚―運動理解です。
 狂気の定義もほぼその上にのっていて、診断の根拠となるのは、そのどちらかが大幅に「ふつう」から逸脱しているか、またはその両者のまとまりー統一性のようなものーが混乱していることを指しています。近時精神分裂病統合失調症と名称変更したのも、この三番目の「まとまりの悪さ」を指して「分裂」は人ぎきが悪いから「統合失調」と読み替えたものです。
 入りと出と、その中間項のまとまりと書きましたが、医師や世間がある人の言動を指して狂気と認定する根拠となるのは、大幅に「入力系―知覚」の変容ないし異常であるこちが実際です。
「客観的」世界が存在し、それへの「正しい」認識ができるのがふつうであるという前提。ふつうの我々には聞こえないものを聞き、見えないものを見る。世界への歪んだ理解をし、その程度が甚だしいから正常ではないと診断する。皆が共有する現実認識との乖離の程度、ヘンなことを言うヘンな人と言う常識的判断と精神医学的診断基準には大した違いはありません。世界の見方、聞き方、理解の仕方・・・・・の異常、これはまあ入力系でしょう。運動的な異常としては、だれが見ても分かるような大興奮、大暴れの類はあるとしても、詳しいディテイルまで観察した記載はないに等しいと言えます。



アフォーダンスはあまり聞きなれないので、ウィキペディアからの引用貼らせて頂きます。

アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学、生態心理学の基底的概念である。「与える、提供する」という意味の英語 afford から造られた。

概論
アフォーダンスは、動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値であると定義される。
アフォーダンスの概念の起源はゲシュタルト心理学者クルト・コフカの要求特性(demand character)の概念、あるいは同じゲシュタルト心理学者クルト・レヴィンの誘発特性(invitation character)ないし誘発性(valence)の概念にあるとギブソンは自ら述べている。


本来のアフォーダンス
ギブソンの提唱した本来の意味でのアフォーダンスとは「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」である。例えば引き手のついたタンスについて語るのであれば、「"私"はそのタンスについて引いて開けるという行為が可能である」、この可能性が存在するという関係を「このタンスと私には引いて開けるというアフォーダンスが存在する」あるいは「このタンスが引いて開けるという行為をアフォードする」と表現するのである。要点は行為の可能性そのものであるため、そのタンスが引いて開けられるのだと示すインターフェイスを持つか否か、ひいては"私"自身がそのタンスを引いて開けることが可能だと認識しているか否かは全く関係ない。タンスに取り付けられているのが「引き手に見えない、あるいは引き手として使用できそうもない引き手」であっても、"私"に引いて開ける事が可能ならば、その両者の間にアフォーダンスは存在するのである。