うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

蓮池とお薄と『現代精神医学批判』計見一雄著・第四章 ナルシシズムについて



今朝、送迎に渥美まで行きましたが、少し時間が早かったので、近くの蓮池で時間を潰しました。
 あまりにも素敵だったので、花と葉を頂いてきましたが、夕方生けようとしたら、葉が萎れてしまっていました。

 去年の学習効果なく(笑)
でも、萎れた葉は葉で、味わいがあったのでそのまま使わせて頂きましたが、又もや実力不足で、うまくまとまりませんでした......。




 昼食後、おっちゃん茶会で、ショートの方と職員でお薄を頂きました。


 

 夕方の学齢児さんのバスを待つ間、ウィニコットを沢山読ませて頂きました(いつもより来る時間が遅かったので)が、『現代精神医学批判』からのアップです。この本も沢山アップさせて頂きたい箇所があり過ぎて困るくらいです。
 学齢児さんの入浴を済ませ、渥美に送迎の帰り、すろーじゃむに寄ったら、雑草が生い茂っていたので、刈払機で、30分くらい草刈りをして来ました。この前したのに、雨と高温で伸び放題ですね!
 ブドウも先日見た、約2倍伸びていましたので、そろそろ摘心の時期でしょうか?北海道の友人に明日、聞いてみます。



『現代精神医学批判』計見一雄著
第四章 ナルシシズムについて
「人格水準の低下」した人の実像
彼の水準低下とはなんだったか?
 彼は私が引き受けたとき、身の回りのことがなんにもできませんでした。風呂で身を洗うこと、洗濯すること、清潔な下着を着けること、掃除をすること、片づけることは全部人にやってもらって自分では手を出さない。出しても、どういう順序でやったものか皆目見当がつかない。
 結果的には、なにやら薄汚れてニヤニヤ笑っている中年男性が出現した。私が二ヶ月の間にしたことは、「自分のことは自分でやれ」と言ったことと、ナースに「手を出すな」とお願いしたことだけです。
 不潔であることは道徳的に悪であるというのも、人類共通の基本的メタファーです。「汚れは悪メタファー」といいます。ニヤニヤしてたのは、この人の良さが表れていただけで、いつもニコニコしている穏やかな人でした。
 多分途方に暮れていたんだろうとは思えても、とてもじゃないが「人格劣化」して水準の下がっちゃった人ではありません。
 この人物を、ここまで「劣化」させちゃった犯人は。じつは精神病院です。できないことをやってあげてしまうことの悪です。なぜ悪かというと、やってあげちゃったほうが楽だからです。マゴマゴノソノソして、じれったいことこの上ない。ちゃんとやれ、手を出すな、なんて言うのは簡単ですが、実際にこの人を指導するのは実に大変だったろうと推察します。素直な人であったことが幸いしたのでしょう。それとナースの熱心さが功を奏したのです。
 精神病院という体制のもとでは、「親切」が時には「あだ」になるという典型でした。
 人格水準が低下した人とは、下世話な言い方では人間のなれの果てという意味です。それが、ただのものぐさと習熟不足だったということを発見するのは、素直に見れば簡単なことです。しかし、それは精神病院の中では難しくなる。精神科医の説明を忠実に聞いてしまった肉親にも難しい。それが病気の産物で「そうなるべく運命づけられた疾患のなれの果て」と話されれば、「不憫だからやってあげる」しか出てこない。
 精神病院ではなぜできなかったかというと、一人の人間として近づいて、しげしげと観察することをしないからです。それをしないですむのは、「クレペリンタイプのスキゾフレニア」という一括りのカテゴリーに入れてしまうからです。
 普通の人の感覚なら直ぐに見抜けることが、玄人になるとできなくなる。インスティチューショナリズムのもとにある職業人が素人感覚を保つことはとても難しい。

ドイツ流も捨てたもんじゃない?
生物学は個々の生物をしげしげ観察することから始まった学問のはずです。あらかじめ決められたカテゴリーに諸生物を当てはめたわけではないでしょう。生物学的精神医学を称するものが、十九世紀製のクレペリン式カテゴリーを復活させるとは、少々驚きです。
 アメリ精神科医は前に書いたように、ドイツ精神医学なんか見向きもしなかった。ところが、DMS-Ⅲ以降のカテゴリー診断隆盛、「生物学的精神医学」隆盛となってみると、あらためてドイツ式の厳密記述が見直されました。「おっ、クレペリンっていいじゃん」と再発見された模様です。「クルト・シュナイダーもいいよ」という記事も読んだ覚えがあります。
 生命は時間を生成するということが最も重要な点です。生命がなければ時間もない。疾患だって生命現象ですから、時間を止めないことには成立しないカテゴリー診断は、生物化学を自称する精神医学には向いていない。言い換えると時間と共に変化する病状がとらえられていない。それじゃ、どうするんだというわけで、現在進行しつつあるのがディメンショナル(次元的な)病状把握とそれによる分類体系を目指そうという動きだそうです。
 これについては、別項でさらに述べることになります。
 この本の目的もディメンショナルな指標を探したいという意図に基づいています。