アトリエ・カーグ展のはがきを、改めてよく見たら、自分の以前描いた、動物のキャラクターを無断で使っていました。(笑)
まあ、こんなレベルのもので、権利を行使する気にはなりませんが(笑)。何かに使えるかな?と思って描き溜めていたものの一つです。
今日は、バタバタしてしまい、休みを謳歌していましたが、種類の不備があったりで、夕方事務所に行って期日のある物を先に片付けて、もう少し猶予のある物を半分やって今帰宅しました(笑)。事務仕事は、給与計算と法人関係以外は、任せているので、ちょっと焦りました(笑)。明日は夜勤ですが、朝から事務所に籠らないといけなさそうですね........。
本は、早番が薄かったので(常勤換算はよゆうでしたがw)6時に入る前に、ファミマで読みました。あと20ページくらいになりました。11月中に読めそうなので、良かったですし、本当に勉強になりました。
下記は、現場での考え方に大きな影響を与えてくれそうですね!
基底欠損水準と言うのは、正しくこのようなことなのではないでしょうか?間違っているでしょうか?
いくら注意しても問題行動が直らない!とは、どこの施設でもよく耳にしますが、この辺を頭に入れて支援をしていければ、解決すると思われますし、うたたねでは、結果も出ています。
『大人にとって舞踏がそうであるように、乳児が体験する社会という世界は、公的な行動の世界である以前に、根本的には、生気情動の世界なのです。しかも、それは無様式知覚という物理的世界に類似しており、基本的には、形、数、強さのレベルなどといった抽象化できる特性の世界であって、目に見え、耳に聞こえ、触れることのできる物の世界ではないのです。』
〜抽象舞踏や音楽も、生気情動の表現性として同じくらい優れた例といえます。舞踏は、生気情動の起源となり得るカテゴリー性の情動信号や物語の筋にとらわれることなく、見る人−聞く表現に多様な生気情動とそのバリエーションを示します。舞踏の振り付け師は大抵、特定の感情内容ではなく、感じ方を表現しようとします。この舞踏と音楽の例は、乳児について考える場合、特に参考になります。というのは、何ら固有の表現性をもたない、つまりDarwinのいう情動信号でない両親の行動を見る時、乳児も、抽象舞踏や抽象音楽の鑑賞者と同じ立場にいるかもしれないからです。両親の行動様式は、それがカテゴリー性の情動であろうとなかろうと(あるいは部分的にその色彩を帯びていようと)、何らかの生気情動を表しています。 それにまた、最初から乳児が大人のように、目に見える行動をそのもの(この行動は哺乳瓶に手をのばすということ、あの行動はおむつを換えるということ)として知覚するわけではないと考える方が自然です。むしろ、乳児はもっと直接的に行動を知覚し、それらが表現する生気情動に基づいて行動を分類し始めます。大人にとって舞踏がそうであるように、乳児が体験する社会という世界は、公的な行動の世界である以前に、根本的には、生気情動の世界なのです。しかも、それは無様式知覚という物理的世界に類似しており、基本的には、形、数、強さのレベルなどといった抽象化できる特性の世界であって、目に見え、耳に聞こえ、触れることのできる物の世界ではないのです。〜