うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

『さとにきたらええやん』とSHINGO★西成の《心とフトコロが寒いときこそ胸をはれ》と「本当の自己true self」とその対概念の「偽りの自己false self」との関係

の日本版を見ていたら、『さとにきたらええやん』と言う映画のレビューを見つけて予告編を見たら、西成の映画でした。大阪生まれですが、直接西成とは関係がなく、幼少時おやじに連れられ、親戚がやっていた三角公園近くの食堂に行ったのを思い出しました。その親戚も、西成の生まれではなかったと記憶していますが、おやじ曰く、「あいつはそんなんが好きやねん」とのことでした。下に予告編のリンクを貼らせて頂きました。
https://youtu.be/u1x_BHwIDpQ

 音楽は、SHINGO★西成の《心とフトコロが寒いときこそ胸をはれ》で、ほんまもんの西成人なので、映像と凄くマッチしていました。
 少し疲れているのか(笑)愚痴が多くなってきていたので、少し元気づけられました。こちらもリンク貼っておきました。
https://youtu.be/K7BE1Pc8EMw

 東京と大阪でしか公開されていませんが、名古屋でも公開される日を一日千秋の思いで待っています。



 夜勤明けで歯科に行き、ぼーっとしている頭で、歯科医師の先生が、疲れで歯茎が腫れる時もあるので.....。田原では珍しい施設なので、頑張ってほしいけど、倒れられたらみんな困るんで.....。と言って下さっていたような感じでしたが、(奥様が法人の理事をして下さっていて、申し訳ないくらい応援してくれています)眠気を抑えるのがやっとでした(笑)元気な時に聞きたかったです(笑)贅沢な人間ですね!
 そちらでも元気を頂きましたが、今日は湿度のせいか?眠いですね(笑)結局、本を読んだり、壊れたプリンターを外して、新しいプリンターをセイッティングしたりしていたら、一日が過ぎてしまいました。
 簡単にワイファイに接続できるのでなんか変な感じです。実感がケーブルでつないでいた時のようにはありません。
自宅の方が、自分はパソコンに向かって仕事している時間が長いので、こちらが事務所のような感覚です。

 

 先日読ませて頂いた、ウィニコットの本の箇所をアップさせて頂きます。凄く分かり易く記述されていたので、迷わず選ばさせて頂きました。


第二部 シンポジウム
指定討論・深津 千賀子
〜第二に、「本当の自己true self」とその対概念の「偽りの自己false self」との関係についてですが、これは私も治療的に関心がありますので、ここで触れておきたいと思います。
 北山先生は先程、「真の自己」というのは瞬間的な状態であって「偽りの自己」を剥いだ内側にあるというようなものではないということを強調されました。日常感覚としてはわかりますし、本当に自分について考えた時、「どれが本当の自己か」などと考えることもないかと思います。恐らく、その人格が「ほどよいgood enough」
環境との関係で健康な発達をした場合を考えると、その通りなのだと思います。
 しかし、同時に、臨床的な経験から見ると、やはり「偽りの自己」が「本当の自己」を覆い隠している場合もある、そして、このことは、ウィニコットの病態論と関係していると思います。ウィニコット自身が「本当の、および偽りの自己という観点からみた、自我の歪曲」(牛島定信訳「情緒発達の精神分析論」)において、「偽りの自己」を《極端な場合》から《健康な場合》まで五段階に分けています。「本当の自己」と「偽りの自己」はあくまでも、環境との関係性の中でとらえる概念として考えると次のことがウィニコット自身によって明らかにされていると思います。
 つまり、ウィニコットは早期に愛情剥奪がない場合について「順調な場合においては、偽りの自己は、本当の自己にむけて固定した母性的な態度を発達させ、そしてそれは、一時的同一化からの分化と発現のまさに開始の時に母親が子どもを抱えるように、本当の自己を抱えているという状態に永久に置かれているのである」(「転移の臨床的諸相」北山修監訳《児童分析から精神分析へ》所収)と表現しています。ここでは、その人格は「本当の自己」も「偽りの自己」も全体としてのまとまりをもち、連続性をもっています。
 私の感覚では、これが自我心理学でいう自我による適応的退行ARISE adaptive regression in the service ego (L,Bellak)、自我による自我のための一時的、部分的退行temporary and partial regression in the service of ego(E,Kris)といった、状況に応じて自我が自由に退行し、またそれが自我のエネルギー源となり、さらにそれが、遊びや創造性、芸術的な能力につながる自我の機能が発達した人格であると考えています。つまり、ここでの偽りの自己は環境への服従ではなく、むしろ、本当の自己とも連続性のある中で、偽りであっても環境と折り合いをつけているので自発性が保たれている状態です。
 しかし、人生早期に愛情剥奪がある場合には、環境の侵襲impingementに対して偽りの自己を組織し、そこで対応することによって本当の自己を守るしかない状態、それは偽りの自己が本当の自己を抱えるのではなく、覆い隠している状態であり、そこでは二つの自己の組織が分裂していると考えます。
 こう考えると、《自発性spontaneity―生きていること、存在していることー創造性―本当の自己》と《服従compliance―死―偽りの自己》というつながりがあり、偽りの自己と本当の自己はあくまでも環境との関係からとらえられるものなのです。
 ここで、人生の早期に愛情剥奪がある場合に環境からの侵襲に対する防衛組織としての偽りの自己と、一応は環境を信頼する能力を身につけ、さらに脱錯覚過程で自発性をもちながら環境に適応していく時の防衛組織としての偽りの自己とでは、その在り方や機能の仕方が異なるし、この違いは臨床的には意味のあることだと思います。
 ウィニコット境界例borderline caseを「患者の障害の核心は精神病的であるが、その中心にある精神病的不安が生の形で突出する恐れのあるとき、常に神経症的、または心身症的症状を呈することができるほどの精神神経症的機制をもっておる症例である」(「対象の使用と同一視を通して関係すること」《遊ぶことと現実》所収)と定義します。ここで彼が強調していことは、このような患者を分析の対象とした時には、分析がうまくいくのだが、治療者が患者の偽りの自己と結託してしまうために、「唯一の欠点は分析が終結しないことである」と、その危険を述べています。つまり、このような患者の場合、偽りの自己の覆いを取って本当の自己とかかわらないと、治療者に服従している患者としか、かかわれない問題を提起しています。
 このどちらをも「偽りの自己」と呼ぶことになっているための混乱があると思いますが、実際の臨床例では偽りの自己の組織のされ方は環境との関係で大きく分けて二つの水準があると私は考えております。後者のような場合境界人格構造水準以下の代表例がM・リトルに対するウィニコットの治療で、あのように治療環境が整えば本当の自己とかかわるためには、組織された偽りの自己の覆いを取ることが必要だと思うのです。ただ、治療環境も含めて治療者の能力が問われることは言うまでもありません。
 しかし、前者のような、ウィニコットの表現によれば「本当の自己を母親のように抱えている偽りの自己」を治療対象としたっ場合は、その抱えている偽りの自己を取り去らなくても本当の自己と連続しています。この比喩を使わせてもらえば、私の感覚では、いわば早期に愛情剥奪のない、神経症水準のパーソナリティーの場合は、本当の自己をきつく抱え過ぎている腕(偽りの自己)をゆるめたり、抱えようとしている腕からはみ出して外界とぶつかったり、落っこちそうになって危険になっている子ども(本当の自己)を腕の中に収めたりして、子ども(抱えられている本当の自己)も時に応じて柔軟に動けるように、そして、まさに安全なところでは双方が自由に好きなことをして遊べるようになれることを治療の目標にするというイメージが浮かんでいます。〜