うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アコギの弦と、【偽りの自己は、都合よく社会親和的であるかもしれないが、本当の自己の欠如が不安定さをもたらし、その不安定さがより明らかになれば、一層社会が欺かれて、偽りの自己が本当の自己であると考えられるようになるのである。】


 アコギの弦を買ってもらいました。
本当は、アニーボールの弦が良かったのですが、近くの楽器屋さんには011のセットしかなく、012のマーティンにしました。
 まあ、悩んだ時には、間違いのない選択ですね(笑)
アニーボールの012はあるのですがそれはいつもの

 ではなく、押尾コータローバージョンの高価なものなので、とても買えません(笑)
ネットで買えばいいのでしょうが、個人的にカードを持っていなくて、コンビニ払いも面倒なので、実店舗で買いました。
 まあそんなにこだわりはありませんが、1弦・2弦をメロディラインによく使うので、あまり細いとキンキン鳴るので、少し太い方が好きです。
011では、キンキン鳴って気になっていました(笑)



 本は、夜勤明けに読みましたが、アップは昨日の箇所のちょうど真ん中あたりの所です。やっぱり、ここがないと昨日の箇所は理解しづらいなと、個人的に思ったので(笑)

〈100−x〉%は、北山修先生の本にも似たようなものが出ていました。北山先生の方が分かり易かったですが、こちらが基なので、シッカリ読んでいます。
 偽りの自己が出ています。
 以前読んだ『ウィニコットにおける遊びの概念』からの引用が大分前にありました。それを参考にして頂ければ理解しやすいでしょうか?


〜「偽りの自己を理解しようという目的がないかぎり、本当の自己という考えを公式化してもあまり意味がない。というのは、それは生き生きしていることの体験の詳細を寄せ集める以上のことにはならないからである。」

 もうひとつ注意書きが必要である。ウィニコット流に言うなら「環境の失敗」のために「本当の自己」がまとまりがなくバラバラで、精神病的であるとき、これを包む適応部分を「偽りの自己」と呼ぶのは″misleading”で不適切である。どっちにしても無条件の自己実現はないし、「本当の自己」に対する「偽りの自己」という表現は、後者が価値がなくて「本当の自己」を求めることを反射的に方向づけるので、注意を要する。重症患者の治療のためには、適応的でたとえ迎合的な「偽りの自己」であっても、「本当の自己」と呼んだほうがいい場合がある。二重構造よりもむしろ、一番防衛的な自己部分があって、その奥にあるはずの「本当の自己」は脆弱で、中核にあるのは「精神病的部分」であるというような三重構造を想定したほうがいい場合も多いのだ。
 日常語で「自分がない」が訴えられる場合、自分が出せないのと、本当に自分がないのとでは大きな違いがあるのである〜




〜イド体験の中に含まれている原初的運動性がx%存在する。それで、〈100−x〉%が他の方法で使われるために残されている。実際のところ、さまざまな個人が攻撃的であることに関して、個々人の経験における幅広い相違を生む理由はここにある。また、ここには一種のマゾヒズムの起源があるのである(後でこれについては述べる)。 こうした運動性の、この事柄にまつわって展開される諸パターンを調べることは有益である(Marty et Fain, 1955)。  第1のパターンにおいては、運動性のために環境は常に発見され、また再発見される。この点で、一次的ナルシシズムの枠の中におけるおのおのの体験が強調している事実とは、新しい個人が発達していくのはその中心においてであるということである。そして、環境との触れ合いは(最初はその未分化な自我−イド状態において個人のひとつの体験なのである。第2のパターンにおいては、環境が胎児(あるいは乳児)に侵襲し、そして一連の個人的体験の代わりに一連の侵襲に対する反応が存在する。それゆえここで、休息するための引きこもりが発展し、それではじめて個人的存在が許される。それで運動性は、ただただ侵襲に対する反応として経験されるのである。 第3のパターンは極端なものであり、個人的体験にとって休息する場さえもないほどにまで、それ〔侵襲に対する反応−訳者〕が過大なものになり、その結果、一次的ナルシシズム状態において個人を発展させることに失敗する。そこで“個人”は、中心核coreの延長としてよりも外殻shellの延長として、そして侵襲させる環境の延長として発達する。中心核について残されているものは、包み隠されて、きわめて深いところまで達する分析においてさえ、見出だすのは難しい。それゆえ個人は、見つけ出されないことによって存在しているのである。本当の自己true selfは隠されており、われわれが臨床的に扱う必要があるのは複雑な偽りの自己false selfであり、その役目は本当の自己を隠したままにしておくことである。偽りの自己は、都合よく社会親和的であるかもしれないが、本当の自己の欠如が不安定さをもたらし、その不安定さがより明らかになれば、一層社会が欺かれて、偽りの自己が本当の自己であると考えられるようになるのである。そのような患者の訴えは不毛感に関するものである。 第1のパターンは、われわれが健康と呼ぶものである。これはその形成において、ほど良い母親の養育にかかっていて、(最初は身体でのみ表現できるだけなので)身体の言葉で表現される愛を伴う。母親は(子宮で、あるいは腕で)赤ん坊を抱え、そして愛(同一化)を通して、自我ニーズに適応する方法を知る。これらの状況のもとで、そしてこれらの状況においてのみ、個人は存在しはじめることができ、存在しはじめることでイド体験を持ちはじめるのである。この段階は、運動性をイド体験へと最大限注入することinfusionのために設定されている。運動性の潜在力motility potentialのx%と、(量的にはxの量の強さの)性愛的な潜在力erotic potentialとの融合fusionが存在する。けれどもここにおいてさえ、〈100−x〉%の運動性の潜在力が融合のパターンには含まれずに残されていて、純粋な運動性の使用だけに利用できるものとなっている。 その融合が(欲求不満への反応である)対立行動action of oppositionとは別の体験の余地を残すということは銘記されるべきである。性愛的な潜在力と融合している部分は、本能的充足に際して満足を得る。反対に、〈100−x〉%の融合していない運動性の潜在力は、対立物を見出だす必要がある。平たく言えば、それが経験されないままで残されず、健康に存在することに対する恐れとして残ることがないとすれば、それはぶつかるための何かが必要なのである。けれども定義上、健康な状態において個人は、適切な対立物を探し求めてまわることを楽しめるのである。第2の、そして第3のパターンにおいて、運動性の潜在力が体験上の事柄となるのは、環境の侵襲を通じてのみである。ここには、不健康が存在する。多かれ少なかれ、個人は対立してもらわねばならず、もし対立をしてもらえれば、それでこそ個人は重要な運動性の源に出口をつけるのである。環境がたえず侵襲してくれる限りは、このことは満足のいくものとなる。しかし、

環境の侵襲は持続したものでなければならない。環境の侵襲はそれ自身のパターンを持っていなければならない、さもなければ、混沌が優勢を占める。というのもが個人が個人的なパターンを発達させられないからである。 このことは依存を意味し、個人はそこから成長しないかもしれない。引きこもりは、そのパターンにおける本質的な特徴となる(極端な場合を除いての話であり、本当の自己は隠されている。それから引きこもりさえ、原初的防衛としては役に立たなくなる)。