うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

天王寺と、のぞみ整体院さんと、「イドのあったところに、自我をあらしめよ」

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  弟の家に泊めてもらい、義母(継母)が京橋の駅まで送ってくれたので、一緒に回転ずしを食べてから、堺に向かいました。弟は京阪で淀屋橋に出た方が近いと教えてくれましたが、自分は天王寺阿倍野が幼いころ自分が走り回っていた場所なので、環状線を選びました(笑)。自分の曲を聴きながらの天王寺は格別です(笑)。親和性があり過ぎかも(笑)。

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 関西人にはお馴染みの、シュークリーム屋さん!お土産にみなさんに買って行きたかったけれども、この暑さでは、無理だと諦めました(笑)。本当に暑かったです! 

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  微妙に時間が余ったので、天王寺駅にあるMIO(昔は、天王寺ステーションビルでした)の喫茶店でコーヒーを頂き、本を読みながら時間を潰してから、中百舌鳥へ!

 御堂筋線堺市まで繋がったので(大分前ですが、自分がいた時にはなかったのでw)、便利になりましたね!

 時間ぎりぎりに来てください!とのことで、近くのミニストップで今度はホットコーヒーを頂きながら時間を潰し、約5分前に行かせて頂きました!軽い問診票を記入して、口頭で(自分は発語しにくいので、文章にまとめましたが、要らないと.....)既往歴(怪我や手術の)を話してから、施術が開始されました。本で何度も読ませて頂いていましたが(1冊目は難しくて、二冊目を3回読み返しました)、やはり痛みや張りがある箇所ではなく、怪我や手術をした箇所を手と串を使って(実際には見れませんが)、右手で筋を撫ぜるような、揉むような感じで、左手で(推測の域を出ていませんが)串を使って丁寧に癒着がある箇所を探して頂いているように思いました。

 個人的に、中学生の頃にサッカーをしていて、シュートした時に、ブチッと音がなって急に膝が象さんの脚くらいに腫上がり、急いで保健室に行き見てもらったら、今まで関節炎をしたことがあるのでは?と、疑われ(笑)、担任が学校の保険があるから治療費は心配しなくても(貧困家庭だったので)大丈夫と言ってくれましたが、保健室の先生は、認めてくれず(本当の話です.....)、手術なんかになると、到底お金が払えないしと、心配になり家に帰っても、ちょっと捻挫したからと、町医者に自力で行き(笑)、靱帯の断裂だと言われて、膝に溜まった血を沢山抜かれました。痛かったです(笑)。靱帯断裂なら手術かな?お金がいるから、祖母にお願いするしかないと思い、松葉杖をつきながら、お金をもらいに行きましたが、手術は結局しなくて、2ヶ月くらい通院して、血や水を抜くことを繰り返していたら、3か月目に杖なしで歩けるようになりました。そんなやりとりを白柳先生としていたら、それは骨折だったのでは?との話になり、びっくりしました(笑)。確かにギブスで固定していた様な記憶が、薄っすらとあり、和式トイレだったので、足を曲げられず、片足で頑張っていた記憶も出て来ました(笑)。

 原因は結局、3歳くらいに裸足で歩いていて、割れた牛乳瓶を踏んだ際に切った足の傷では?というのが、昨日の時点での見解でした。実際に触って頂いていたのは、右の腰やお尻と、うつ伏せになった時は、左側の背中と背骨(こちらは両方)あたりの施術でした。終わると、今まで色々な施術をしてきましたが、左側全体に力が入らないような感覚になっていて、帰りの近鉄の中では、としちゃんと一杯歩いたときのように、指の先まで、血行が良くなっているのが実感できました。

 帰りに本を薦められたので、買って電車の中で読み終えましたが、神田橋先生までいくと、何かもう宗教の教祖様のようで、自分みたいな人間には近寄りがたく、畏れおおい感じがしてしまいます。購入する際に、自分は中井久夫先生派ですが、と(笑)話したり、でも神田橋先生の本はあまり読んだことが無いけれど、マーガレット・リトルなどの訳書は、読ませて頂いたことは伝えさせて頂きました。

 実痛は、自分の場合右ですが、右をかばっている左の方がこっているとよく言われていましたが、右を左がかばっていると言われ、納得がいきました。

 

 買わせて頂いた本の中には、参考になる箇所が沢山あったので、現場で活用出来たらと思っています。

 

 

 下記は、有名な「イドのあったところに、自我をあらしめよ」が出て来ます。

その後の『これは衝動を意識化するだけでなく、衝動を自我によって利用しコントロールできるようにすることを意味している。自我と衝動の、愛と憎しみの、超自我と自我のより大きな統合を意味している。』は、自分たちの目指している支援の核心にあたるところかも知れません。断片化しているものを統合するという作業が、治療だけではなく、福祉の現場でも強く意識できた支援がなされることが普通になることを、目指して現場で頑張りたいなと思っています。その過程では色々ありますが、ウィニコットの言う、ひとりでいれる能力などは、きちんとけじめをつけた支援でないと出来ないし、偽りの自己を作らせないようにするには、環境設定をきちんと行い、安心・安全感を持っていただかない事には達成はできないし、本当に沢山の事を考えながらでないと、本当の支援ができませんね........。

 

 

 

  ~長期にわたる心的変化において、私たちが達成したいと願っているのは何かという問題にここで戻ろう。フロイトはさまざまな場所で分析の目的について論じたが、それは当然変化の問題を含んでいる。私は彼の考えを検討しようとしているのではなく、ただ彼が無意識を意識化することを強調したこと、そして「イドのあったところに、自我をあらしめよ」という言葉で簡潔に表現した考え方を強調しているところを示そうとしているだけである。これは衝動を意識化するだけでなく、衝動を自我によって利用しコントロールできるようにすることを意味している。自我と衝動の、愛と憎しみの、超自我と自我のより大きな統合を意味している。彼の研究全体にわたり特に中期および後期において顕著である。