ギターの弦と、ピックと、下士聞道、大笑之と、第22章 反社会的傾向
今日は、自分の受診で豊橋まで行ったついでに、抹茶とギターの弦を買ってきました。
セミアコの弦はいつも通り、アニーボールですが、アコースティックギターの弦は、ダダリオに戻しました。まだ張り替えてはいませんが、ほぼ毎日ギターを触っているので、そろそろ張替え時です。
張り替える時には、自分が出来るメンテナンスはしています。
一度購入すれば、2年は持ちますが(笑)
使い古しのピックの量が、半端ではなくなってきました!
再生しようと目論んでいましたが(笑)処分することにしました。
受診待ちの時間にウィニコットを相も変わらず(笑)読ませて頂きましたが、ふと周囲から聞こえた声で(待合ではなく現場周辺で)、老子の言葉を思い出しました。
『下士聞道、大笑之、不笑不足以為道』
(知識のない者が『道』について聞くと、おおいに笑う。
笑わなければ、その教えは『道』とは言えないだろう。)
ウィニコットを一冊読み終えました。この一冊は、難しいのもありましたが、なるべく理解しようと思い、分からない箇所は調べまくり、本当に理解できているか?自分の中で反芻しながら読ませて頂きました。
第22章 反社会的傾向
本来の喪失
私が特に主張したいことが1つある。反社会的傾向の基底には、失われてしまった早期の良い体験というものがある。確かに、不幸の原因が環境の失敗にあることを知覚できる能力に幼児が達しているということは、本質的な特色なのである。抑うつや解体の原因が外的なものであって内的なものではない、という正しい知識が人格の歪みの原因となって、新しい環境の提供による治療を求めようとする衝動の原因となるわけである。この種の知覚を可能にする自我の成熟状態が、精神病的な病気ではなく反社会的傾向の発達を決定する。実に多くの反社会的な強迫が早い段階に現れ、両親によって首尾よく取り扱われる。しかし反社会的な子どもたちは、(無意識に、あるいは無意識的な動機によって)環境の提供によりこの治療を求めて絶えず迫ってきながら、それを利用できないでいるのである。
乳児や幼児においては、自我がリピドー的なイドの起源と攻撃的(あるいは運動性の)イドの起源の融合を達成する過程にあるという時期に、本来の剥奪の時があるように思われるだろう。その望みのある時期に、子どもは、
信頼できるという幾つかの要素を持つ新しい設定を知覚する。
対象希求性と呼ばれうる欲動を体験する。
無慈悲さが主たる特色になりかけている、という事実を認識する。そ れで、直接環境を駆り立てて、危険に対して警戒するようにさせ、不 快なことを容認するよう組織化させる努力をする。
もし状況が抱えてくれるならば、環境は以下のような能力を試され、そして繰り返し試されねばならない。すなわち攻撃性に耐えること、反社会的傾向の中に肯定的な要素を認めること、そして求められて発見されるべき対象を提供し、貯えること、といった能力である。
順調な場合、つまり狂気や無意識的な強迫、あるいは妄想性の組織化などがそれほど大きすぎない時は、その象徴的な価値がすでに失われてしまった代用の対象への要求を重ねることで探し続けるかわりに、その順調な条件は子どもが人を見出してその人を愛することをやがて可能にするだろう。
次の段階で子どもは、関係の中で望みだけではなく、落胆を体験できるようになることが必要である。子どもにとって人生に本当の可能性は、これを超えたところにある。施設の管理人やスタッフが子どもにそのすべての過程を切り抜けさせるとき、彼らは分析的な仕事に匹敵する治療をしたことになる。
普通、両親は自分の子どもたちの中の1人に対してはこの完璧な仕事を行う。しかし、正常な子どもたちをうまく育てあげることができる親たちでも、自分の子どもの中で反社会的傾向をたまたま現した1人の子には、その多くが失敗しているのである。
この論述において、以下のものと反社会的傾向の関係について言及することを、私は故意に省いてきた。
行動化。
自慰。
病的な超自我。
リピドー発達の諸段階。
反復強迫。
思いやり以前への退行。
妄想性の防衛。
症候学の観点からの性差。