うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

市中の山里と、第21章 原初の母性的没頭

 入梅してから、よく雨が降りますね......。
槿も咲き出したので、欲しいなと思うと必ず雨が降っています.....。
なので(笑)京都で買った絵を広げて、お茶室にいる気分を味わってみました(笑)そういえば、お抹茶がもうありませんでした。
 明日は休みなので、買ってきます。
虫食いだらけの絵でした(笑)


 今日も学齢児さんのバスを待つ間、ウィニコットを読ませて頂きました。同じような内容が続きますが、今回は分かり易いと思い、長文をアップさせて頂きます。
 ホームもショートも、マザーリングが必要な方が多いと感じていますので、本当に参考になりました。
 きちんと支援が出来ている職員は、きちんとけじめをつけることが出来ている職員です。

第21章 原初の母性的没頭
母性的没頭
〜私は〝普通の献身的母親ordinary devoted mother(Winnicot,1949)という言葉における〝献身的″という用語で、この状態をほのめかしてきた。その他のすべての点においては、良い母親であるという女性は確かに多い。しかし、そんな彼女たちも、豊かで実りある生活は送ることができるのに、まさにその始まりの時に、乳児のニーズに繊細にまた感受性豊かに自らを適応可能にさせるようなこの〝正常なる病気″を、獲得できないのである。あるいは、1人目の子どもにはそうなれたのに、次の子ではそうはいかないこともある。このような女性たちは、それが正常であり一時的であっても、他の関心事を除外してまで自分の子に没頭する気にはなれない。おそらくこれらの人びとのうちには、〝正気への逃避″がありうると想像されるかもしれない。
たやすくは捨てられない非常に大きなもう1つの関心事を確かにもっている女性もいるし、彼女たちは最初の赤ん坊が生まれるまでにこれを捨てる気になれないかもしれない。男性性に強く同一化している女性にとっては、彼女の母性的養育機能のうちこの部分がもっとも達成しにくいものとなり、抑圧されたペニス羨望により、原初の母性的没頭のための余地はほとんどなくなるのである。
 実際、その結果、このような女性たちは子どもを出産しても、その最早期において好機を逃しているために、取り逃がしたものを埋め合わせるという課題に直面することになる。彼女らは長い時を費やして、成長していく子どものニーズにぴったりと適応していかねばならず、しかもその早期の歪みをうまく修理できるかどうかは分からない・早期の一時的な没頭が良い結果をもたらすものだと認めるかわりに、彼女らは治療を求める子どものニードに巻き込まれてしまう。すなわち、必要以上に引き延ばされた期間、ニードに適応すること、言いかえると甘やかすことになる。彼女たちが行うのは、治療であって親になることではない。 同じ現象が、Kanner(1943)やLoretta Bender(1947)、その他の著者たちによって言及されている。つまり、〝自閉傾向のある子ども″(Creak.1951;Mahler.1954)を生み出しやすい母親のタイプについて、記述することを試みた著者たちである。
 ここで、過去にできなかったことへの埋め合わせにおける母親の仕事と、剥奪された子どもを反社会的な状態から社会的同一化へと社会が向かわせようという(時にはこれは成功する)課題とを、比較できよう。母親(もしくは社会)のこのような作業は、自然に起こるものではないため、非常な重荷となる。とりかかるべき仕事は、本来もっと早い時期のもの、つまりこの場合は、乳児が個として存在しはじめたばかりの頃のものなのである。
 正常な母親は特別な状態になり、そしてそこから回復する、というこの主張が受け入れられるならば、われわれは乳児のそれに対する状態について、もっとくわしく検討していくことができる。
 乳児には、次のようなものが見られる。
 
 素質。
 生得的発達傾向(″自我における葛藤外領域″)。
 運動性と感受性。
 本能。優位になる性感帯の変化に応じて、発達傾向の中で本能そのものは関わってくる。


 私が〝原初の母親的没頭″と呼んでいるこの状態を発達させている母親は、乳幼児の素質がはっきり現われてくるための、また発達傾向が展開し始めるための、さらに乳幼児が自発的な運動を経験し、人生のこの早期にふさわしい感覚を有する者となるための、設定を供給することになる。この本能的な生活については、ここで述べる必要はない。というのは、私が論じていることは、本能のパターンが確率する前に始まっているからである。
もし母親がニードへのほど良い適応をしているなら、その乳幼児自身の人生の道筋が侵襲への反応で損なわれることはほとんどない、と(当然問題となるのは、侵襲への反応であり侵襲そのものではない)。母親の失敗maternal failursは侵襲に対する反応の時期を生み出し、これらの反応が乳幼児の〝存在し続けることgoing on being”を妨げてしまう。このような反応することreactingが過度になると、欲求不満ではなく、絶滅の脅威threat of annihilationを生み出す。私の考えでは、これこそが本当の原初的不安primitive anxietyであり、それを記載する際に死という言葉を含むどんな不安よりも、はるかに先行しているのである。 
 換言すれば、自我の確立の基盤とは、〝存在し続けること″の申し分のなさであり、これは侵襲への反応によって中断されるものではない。もし母親が(私のいう)この状態になっているのであれば、〝存在し続けること″の申し分のなさが、その始まりの時に初めて可能となる。妊娠の終わりに近づき、そして赤ん坊の出生に続く数週間ずっと、母親が健康である時、この状態は実に本物なのである。
 私が述べているような形で母親の感受性が高められさえすれば、母親は彼女の子どもの立場に身を入れて感じとることができ、それでこそ、その乳児のニーズに応じることができる。これらは、最初は身体ニーズであるが、心理学が身体的体験を想像的に練り上げていたものから発現するにつれて、それらは徐々に自我ニーズへとなるのである。 
 そこで母親と赤ん坊の間には、自我で関わっていることego-relatednessが存在することとなり、そこから母親は回復する。そして、それを基にして幼児は、母親の中に1人の人間がいる、という考えをやがて築き上げるだろう。このような観点からすれば、母親を一人の人物として認識することが肯定的な形で正常に生じるわけであり、それは母親を欲求不満の象徴として体験することから生じるのではない。母親が最早期の段階で適応に失敗すると、乳児の自己の絶滅以外の何ものも生み出しはしない。
 母親がたくみにこなしているものが、どのような形であれ、この段階の乳児によって把握されることはない。私の理論によれば、これこそ自明の事実である。母親の失敗が母性の失敗として感じられるのではなく、それらは個人の自己存在への脅威として作用するのである。 
 こうして考えてくると、早期の自我の確立は、それゆえ無言の内に行われると言えよう。初めての自我の組織化は、絶滅の脅威の体験に由来するが、その脅威は決して絶滅にいたることはなく、そしてそこから繰り返し回復できるものである。そのような体験を基盤にしての回復への信頼が、自我につながるような何ものかになり始めて、また欲求不満をうまく扱う自我の能力につながる。
 欲求不満を引き起こす母親として幼児が母親を認識する、という問題にこの理論が役立つと将来感じてもらえれば、と筆者は望んでいる。〜