うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

駐車場の名前と、【偽りの自己が、迎合を基盤にして発達し、成熟した独立にいたることは、おそらく精神病的環境におけるにせの成熟pseudo−maturity以外にありえない。】


 今日は、急なシフト変更があり、夜勤になりました。シフト上では、休みでした(笑)
なので早めにアップします。
 事業報告をやり始めていますが、色々と急な用事が入ってくるので(笑)中々集中できず、まずは親分からの依頼の、新しく借りた駐車場の名前をシルクスクリーンで刷れとのことで、刷りました。色が茶色しかなかったので、とりあえず茶色にしました。退色したら、マスキングして、ブラックか、紺色にしようと思っています。

 本とギターはなんとかやりましたが、体を夕方に動かしに行こうと思っていましたが、夜勤になったので諦めました(笑)





 ウィニコットは、この論文の佳境に入っています。去年勉強していたことの元の(英文ではありませんが.....)本なので、今回の箇所も、何回も読み返しています。
アップはしていませんが、中間領域という考え方も中々鋭いですね。この辺を本当に理解できれば、精神に障害をお持ちの方々だけでなく、知的に障害をお持ちの方々にもうまく適応できれば、よりきちんとした支援ができるように思います。




情緒発達の原初的諸段階
 最初は、個体は決して1つのunitではない。外側から見る限り、1つの単位になっているのは環境−個体の組み合わせenvironment-individual set-upなのである。外部の観察者は、個体の精神とは特定の設定settingがあってはじめて開始されるものだということを知る。この設定の中で、個体は徐々に私的な環境を創造するようになるのである。すべてが順調にいくならば、その個体によって創造された環境は、一般に知覚できるような環境に十分近いものとなっている。そしてそうした場合は、個体は依存から自立へと移行する発達過程における一段階に達するのである。これはきわめて危うい発達の時期であり、ここで成功することが、精神病の点から見た精神的健康を主として基礎づけることになる。この難しい時期こそ、この講演で私が検討したいことなのである。したがって私は、次のような素朴な問いから最も遠い地点にいる。「精神病は、乳幼児期や児童期によく見られるのか、それともまれなものなのか?」むしろ私は、原初的段階、あるいは最早期における情緒発達が、大人の分裂病、スキツォィド状態一般、錯乱と未統合に対する組織だった防衛等の研究に見られるのとまさに同じ現象に関わっている時の様子について、考えを述べようとしているのである。スキツォィドの人を、特に年齢を限定することなく詳細にわたって研究することは、その人の非常に早期の発達についての詳細な研究ともなる。そしてここでの発達とは、環境−個体の組み合わせの段階の中にいて、そしてそこから発現emergeしてくる発達なのである。


〜母親は子どものニードから生まれる個人の創造のが潜在力が、幻覚への準備状態readiness for hallucinationを作り上げる。母親の愛情と、自らの乳児への緊密な同一化により、何らかの物をおおむね適切な時に、適切な場所へ差し出せる程度にまで、母親は子どものニーズを感じ取るのである。これが幾度も繰り返されることにより、子どもの錯覚を用いる能力が始動するわけだが、この能力とは、それなしでは精神と環境との間にいかなる接触も不可能となるようなものなのである。もしここで錯覚という言葉を、親指とか、そこの毛布の端やあそこの柔らかい布の人形(フェティシュの対象fetish−object,Wulff,1946)など、8〜10〜12ヵ月の子どもが慰めや心地好さのために用いるもので置き換えるならば、それは私が他のところで移行対象transitionalobjectという用語を用いて示そうとした事柄となることが分かるだろう。



 〜分裂splittingの極端な場合では、秘められた内なる生活はその中に外的現実に由来するものをほとんどもたない。それは、本当にコミュニケーションが不可能な状態なのである。
 この早期の段階において分裂への傾向が強い場合は、個体は偽りの生活へと誘惑されるおそれがある。最悪の場合の小児医学(すなわち、身体的な健康ばかり重んじ、精神の持つ権利を否定する場合)とは、本能による人間性humannatureの裏切りという組織的な搾取なのだ、ということができる。この種の誘惑seductionが成功した場合、不注意な観察者の目には申し分のないものに映る偽りの自己を生じさせるかもしれない。しかし、そこには分裂病が潜在し、最終的にはその姿をあらわにする。偽りの自己が、迎合を基盤にして発達し、成熟した独立にいたることは、おそらく精神病的環境におけるにせの成熟pseudo−maturity以外にありえない。