うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグとバンドクラブと、第18章 正常な情緒発達における抑うつポジション


今回のカーグは、予定通り染付を描きました。


 素敵な作品が出来ましたが、

 おかもっちゃんは消化不良だったのか、いつものパターンで描きたいと、もう一枚描かれていました!




 バンドクラブは、機材が良くなったので、みなさんの声が良く聞こえます。
ギターの音が、ソロだと良いのですが、合わせるとまだまだ良い音に聴こえないので、ダメですね.....。夏場はテレキャスターを外に持ち出せないので、335でやってみました。



 またまた急な夜勤でしたので、カーグ等のアップが遅れてしまいました。(笑)

夜勤明けの頭で、冴えませんでしたが(笑)少し事務仕事をやってから、ウィニコットを読ませて頂きました。


第18章 正常な情緒発達における抑うつポジション
〜なぜ私が、母親がちょうどよい時間で状況を抱えることの重要性を強調してきたか、分かってもらえるだろう。
 今や、良い循環benign circleが設定されている。これらすべては複雑なことではあるが、そこに次のことを見分けることができる。
 
本能的体験によって複雑になった幼児と母親との関係。
結果(穴ぼこ)についてのぼんやりした知覚。 
内的な徹底通過、すなわち体験の結果が選り分けられること。
与える能力、すなわち内側の良いものと悪いものの選り分けのゆえに。
償い。 
 この良い循環が毎日毎日強化される結果として、幼児は穴ぼこ(本能的な愛の結果)に耐えうることができる。ここに、罪の感情guilt feelingの起源がある。これが唯一、本当の罪である。なぜなら、植えつけられた罪implanted guiltというのは、自己にとって偽りであるからである。罪は、2つの母親、そして平静な愛と興奮した愛、そして愛と憎しみ、といった2つを一緒に寄せ集めることを通して始まる。そしてこの感情が徐々に成長して、人間関係における活動の健康で正常な源となる。ここに能力potencyや社会貢献、そして芸術活動のひとつの源がある(しかし、芸術そのものの源ではなく、芸術とはもっと深いレベルに根ざしている)。
 だからこそ、抑うつポジションが大変に重要であることが明らかなのである。そして、メラニー・クラインによるこの点についての精神分析への貢献は、社会および子どもの世話や教育への本当の意味での貢献である。健康な子どもは、罪の感覚のパーソナルな源をもっているのであって、罪あるいは思いやりを感じることを教えられる必要はない。もちろん、ある割合の子どもたちは、この意味では健康ではなく、抑うつポジションに達しておらず、そして善悪の感覚はまさしく教えなければならない。このことは、最初に述べた事柄の当然の結果である。しかし、少なくとも理論的には、おのおのの子どもは罪の感覚を発達させる潜在力を有している。臨床的にわれわれは罪の感覚のない子どもたちに会うが、しかし、もし抑うつポジションの獲得に手遅れになる前に機会が与えられるなら、私的な罪の感覚を見出せない人間の子どもなどいない。境界例の症例においてわれわれは、分析から離れても、この発達が生じるのを実際に見て取れる。それはたとえば、いわゆる不適応者のための学校で世話されている反社会的な子どもたちの観察においても見られるものである。
 良い循環が働き始めると、時間が与えられれば、その穴ぼこについて、そして母親の身体に対するイドの衝動のさまざまな結果について、幼児は何かがなされうるという認識を持ち始める。これを通して、思いやりconcernは幼児にとって耐えられるものとなる。このようにして、本能はより自由になり、より多くの危険にも挑むことができるのである。より大きな罪が引き起こされても、さらに続いて本能的体験の激化がその想像的な練り上げを伴って起こり、それゆえ結果として、内なる世界が豊かになって、今度は贈与力の可能性gift potentialがさらに大きなものになる。
 われわれは、分析中に転移の中で抑うつポジションに到達したとき、このことに繰り返し出会っている。愛が表現されると、引き続いて分析家に対する不安や、また心気症的恐怖が起こるのをわれわれは見ている。あるいは、もっと積極的に言うなら、本能の開放、人格における豊かさに向かう発達、そして能力potencyの増加、あるいは社会的貢献への一般的潜在力の増加をわれわれは見るのである。〜