うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

季節外れの?筍と、本を借りましたと、お茶と、『ウィニコットにおける遊びの概念』


 先日、ひーひー王子との散歩で、細くて小さい筍があったので、頂いて来て、投げ入れました。
 藤井達吉の絵を思い出しました。

 最初はこちらでしたが、掛け軸が小さくて(笑)バランスが悪いので止めました(笑)ベースは正月の残り物です(笑)
横幅のある、消息の掛け軸が欲しいのですが、中々1,000円台では落ちません(笑)まあ、筍とベースのバランスも悪いですが(笑)
 1,000円台で落ちる奇跡を待ちましょう(笑)それしかない.......。

 ホームとショートの方々のお昼の外食に誘われ、今日は夜勤ですが皆さんと一緒に食事を摂らせて頂き、皆さんはどこかへドライブに行ったので、歩いて帰るついでに、図書館に寄って、本を借りて来ました。一冊は、凄い題名ですが、両方ともさくっとぐるりんバスの中で(10冊借り、重たかったのでバスで帰って来ました)読ませて頂きましたが、内容的にはまじめに精神医学を考えている本で、支援にも参考になる事が出ていましたので、時間を見つけて読ませて頂きます。
 日本人が書いた本は、訳書と違い読みやすくて助かります(笑)

 公私ともに色々あり、毎日バタバタしていますが(笑)自分は、曲を独奏用にアレンジして(昨夜は10分ぐらいでカーペンターズのRainy Days And Mondays をアレンジし、何回か弾きました。)弾きまくり、それで十分ストレス解消になるので、何とか日々をやり過ごしています。
 金、土、日と職員の都合で、明けのない夜勤を久し振りにする予定でしたが、女性職員が土に入ってくれ助かりました!ありがとうございました!うたたねは24時間365日の営業なので、中々大変ですが、今の所、親分が奇跡を起こして、職員さん達にも恵まれています。

 親分は最近日本茶に目覚め、美味しいお茶を飲みたいと言い始めましたが、何分けちなので、安くて美味しいお茶!と言っています(笑)そんなの滅多にないですね!
 お抹茶を買いに行った時に、ついでにお茶も見せて頂きましたが、値段を見て一番安いお茶にしようとしていたので、なんとか正喜撰にしときと(安価なもので、自死した母親が日々の食事時に入れていたお茶でした)親分が納得できる金額のお茶を選びました。
 熱湯で入れるのがそもそもいけないのですが、それが出来ないのも親分です(笑)
お茶屋さんのご主人も笑っていました(笑)
それようのポット(煎茶用の)もあるのですが、もったいないと言って買いません。
なら、玉露を買ったとしても、美味しいお茶は無理かもです(笑)
 親分的にはユニクロも高価の部類に入るので、Tシャツを作る時に、無地の物を買いに行くくらいしか行ったことがありません(笑)
 自分たちがユニクロ製品を着ていたら、古着屋で買ったと思って下さい(笑)どうでもいいことでした。(笑)



 今、読ませて頂いているウィニコットの最初の箇所をアップさせて頂きました。
ここには出て来ませんが、ウィニコットのスパチュラ・ゲーム(舌圧子ゲーム)は、環境設定としても取り上げられていて、幼児の心理を上手く拾い上げ、意味づけし、体系化していて、彼の凄さ(帰納的な)が嫌でも感じられます。
 自分の支援は、常々遊びだと見下されていますが(笑)下記の文章をよく読んでいただき(笑)色眼鏡を外して見て下さればと思っています。
 サリヴァンだけでなく、向精神薬が無かった時代の精神分析には、薬を触れない、福祉職が身に着けないといけないであろう物が、沢山あります。



ウィニコットにおける遊びの概念』マイクル・パーソンズ(訳:東中園 聡)
 ウィニコット(Donald W.Winnicott)は、精神分析療法における根本的に重要な要素の一つは遊びの概念であると考えました。彼の最も引用される記述の一つは、例えば、次のものです。
 『精神療法は、患者と治療者の二つの領域が、重なり合うところで行われる。精神療法は二人の人間が一緒に遊んでいることに関係している。このことの帰結として、遊ぶことが可能でない場合には、治療者によってなされる仕事は、患者を遊ぶことができない状態から、遊ぶことのできる状態のなかへ連れて行くことに向けられるのである。』 

 これは、最もオリジナルな考えの一つなのですが、同じように、一部の人びとにとっては、最もショッキングなものの一つでもあるのです。それは多くの異議を巻き起こしてきており、一部の人びとは、とても不可解であるとして全く無視しているのです。

 それは、しばしば、一人の非常に奇妙な精神分析家の奇妙な見解であると見なされており、そこには、まじめにseriously受けとめる必要はないという暗黙の含みがあります。それゆえに、まず第一に、私たちは、非常にまじめで重要なものとしての遊びの概念は二〇〇〇年にわたるものであり、それ以来ずっと人類の文明に耐えることなく現われているということを、はっきりと理解する必要があります。プラトンは次のように述べています。


『人間は神の玩具として造られ、そして、神の最もすぐれた部分なのである。それゆえに、すべての男性も女性も、それ相応の生活を送り、最も高貴な遊びをして、現在あるものとは別の精神でいるべきである。
・・・・・それでは、生きることの正しいあり方とはどんなものであろうか?人生は、遊びとして生きられなければならない。』

 
 シラーSchillerは、ドイツのロマン派の詩人であり哲学者ですが、もし人間が充分に文明化されているならば、その本質の一部としての〝遊ぶことへの本能instinct for play″を発揮したがるという欲求について記述しています。私はホモ・ルーデンスHomo Ludensという名の著書が日本語に訳されているかどうかは存じませんが、それはオランダの歴史学者であるヨハン・ホイジンガJohan Huizingaという名の人物によるもので、それは、遊びは人間の文化のすべての特徴が充満している活動であることについての、注目すべき説明を与えてくれます。そういうわけで、ウィニコットは、そのような孤立した変わり者ではないのです。非常に議論を呼ぶように思われてしまうこの概念は、わたしたちが考えていたかもしれない以上に、一般的な主流をなしている伝統の一部であるわけです。〜