うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

名古屋と、イチローと、ウィニコット


今日は、名古屋でアレクサンダー・テクニークを受けて来ました。
今回は、歯磨きをしている設定で、なんで歯磨きやねと、思ってしまいましたが、先生の話に沿ってやっていくうちに、その奥深さに気づくことが出来ました。
 長くなるので、詳細は割愛させて頂きますが、その会場もキリスト教系で、近くには、自分が藤木先生から洗礼を受けたのと同じ教団の教会があります。
 地下鉄の出口から直ぐに教会があるので、いつも前を通っていますが、今日はこんな物がありました。
 

 いつも名古屋に行くときには、どうせ行くなら色々な用事を済ませる様に計画して行くのですが、今回は予定も立てずに行ったので、栄から名古屋駅まで、雨でしたが歩いてみました。仕事が山積しているにもかかわらず(笑)
 欲求を掻き立てられそうな看板やお店が沢山目に入り、沢山写真を撮ってきましたが、一枚だけアップさせて頂きました。
 本当は後ろに写っているテレビ塔もセットなんですが、こちらの方が街って感じがしたのでこちらを選びました。
 この時は、エルビス・コステロがイヤホンから聞こえていました。

 駅では丁度、尾崎豊のアイラブユーがかかっていたので(携帯で)この風景を見ていると、幼少期をなぜか思い出し、切なく感じてしまい写してしまいました。何となく大阪を思い出したのでしょうか?
 今日は、約100曲を垂れ流しにしていました(笑)全部は聴けませんが、シャッフル機能でランダムに和洋ごちゃまぜで、昔のUSEN状態でした(笑)


 名古屋駅に着いたら、これが貼ってありました!


帰ってきて見たニュースで、彼のこの言葉に感銘を受けました。

「僕は子どもの頃から人に笑われてきたことを常に達成してきているという自負がある。アメリカに行くときも『首位打者になってみたい』(と言って)そんな時も笑われた。でもそれも2回達成した。常に人に笑われてきた歴史、悔しい歴史が僕の中にあって、これからもそれを達成していきたい」

さらに言う
「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道」 

 当法人もまだ若くて小さな法人なので、笑われ、馬鹿にされている毎日ですが、彼の言うように、毎日小さい事をきちんとこなしていけば、彼ほど偉大にはなれないけど、地域で認められるようになれると信じて今まで、役員・職員と一緒にやってきたし、これからもやっていきたいと思っています。


 電車の中では『抱えることと解釈』を読ませて頂きましたが、『小児医学から精神分析へ』をアップさせて頂きます。丁度、今日読んだ所と同じ内容でした。


第19章 精神分析的設定内での退行
〜私にとっては、退行という言葉は単に前進progressの逆戻りを意味している。この前進それ自体は、個体、精神-身体、人格、そして(最終的に)性格形成や社会化を伴った心の進化なのである。前進は、出生に明らかに先だった時期から出発している。前進の背景には、生物学的な動因がある。精神分析の教義の一つに、次のようなものがある。つまり、健康は、精神psycheのこの進化論的な前進に関しての連続性を前提としており、そして健康とは個体の年齢にふさわしい情緒発達の成熟であり、ここでいう成熟とはその個体の進化の過程に関してのものである。
 よく検討するならば、前進の単純な逆戻りはありえないということが即座に見て取れる。前進が逆戻りするためには、個体の中に退行を可能にするような組織がなくてはならないのである。
 われわれが理解しているのは、次のようなことである。


 偽りの自己の発達を結果として生じるような、環境側の失敗。
退行のための潜在的な能力によって表される、初期の失敗の修正の可 能 性を信じること。この能力は、複雑な自我組織が存在することを意味している。
 実際の退行が引き起こされるような特殊化された環境の提供。
 新たな前向きの情緒発達。これは後に記述されるような複雑な事柄を伴っている。


ちなみに私は、病歴に幼児的な行動が現われる時、退行という言葉をいつも用いるのは有効でないように思う。
退行という言葉は、われわれがあえて採用する必要がないような通俗的な意味を引き出してきた。精神分析の中で退行について語る時、われわれは自我組織の存在と混沌の脅威のあることを意味している。個体が記憶や思考や潜在的能力を貯える仕方に関して、ここで研究することはたくさんある。あたかも好ましい状況が現われて退行を正当なものとし、前向きの発達に向けての新しいチャンスを提供してくれることを期待しているかのようであるが、その発達とは、当初は環境の失敗によっては不可能、あるいは困難なものとなったものである。

〜極端な症例においては、治療者は患者のもとへ出かけ、積極的に母親的養育を行い、患者には予想もつかなかったような体験を提供する必要が生じる。〜