暖かかったですねと、【極端な症例においては、治療者は患者のもとへ出かけ、積極的に良い母親的養育(マザーリング)を行い、患者には予想もつかなかったような体験を提供する必要が生じる。】
お昼は、暖かかったですね。
今日は、休みだったので、事業報告書を作っていました。外に出たのは、昼食を買いに行った時と、ひーひー王子の散歩に行っただけだったので、花粉症の症状があまりでなくて、助かりました。
お昼を買ってきたら、ひーひー王子は、暖かいからか?日陰で寝ていました。今日も、近くに行っても起きませんした(笑)
本は、事務仕事の合間に読みましたが、アップはいつもの如く、昨日読んだ箇所です。
下記の4つが、自分的には、支援のありがたいヒントになります。
結局は、退行によって、固着点まで行ってしまっているので(退行を可能にするような組織があって)、重度の方には、積極的に良い母親的養育(マザーリング)を行い、患者には予想もつかなかったような体験を提供する必要があるということですね。
それには、健常者と言われる方々の失敗状況を凍結するというやり方に軸を置きながら、考えて行くという方向でやっていくのが、分かり易いように思いました。
もちろん、積極的に良い母親的養育(マザーリング)を行い、解凍して行かなければなりませんが。
『よく検討するならば、前進の単純な逆戻りはありえないということが即座に見て取れる。前進が逆戻りするためには、個体の中に退行を可能にするような組織がなくてはならないのである。』
『極端な症例においては、治療者は患者のもとへ出かけ、積極的に良い母親的養育(マザーリング)を行い、患者には予想もつかなかったような体験を提供する必要が生じる。』
『その時、個体は退行状態にあり適切な適応を行っている環境の中にいて、失敗状況が解凍され、再体験されることが可能になるだろう。ここにおいて、癒しの過程の一部、つまり、実際健康な人においてもきちんと研究できる正常な現象の一部としての退行に関する理論が、提示されるのである。』
『極端な症例においては、治療者は患者のもとへ出かけ、積極的に良い母親的養育(マザーリング)を行い、患者には予想もつかなかったような体験を提供する必要が生じる。』
CHAPTER 9
精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1954)
〜私にとっては、退行という言葉は単に前進progressの逆戻りを意味している。この前進それ自体は、個体、精神ー身体、人格、そして(最終的に)性格形成や社会化を伴った心の進化なのである。前進は、出生に明らかに先だった時期から出発している。前進の背景には、生物学的な動因がある。。つまり、健康は、精神psycheのこの進化論的な前進に関しての連続性を前提としており、そして健康とは個体の年齢にふさわしい情緒発達の成熟であり、ここでいう成熟とはその個体の進化の過程に関してのものである。 よく検討するならば、前進の単純な逆戻りはありえないということが即座に見て取れる。前進が逆戻りするためには、個体の中に退行を可能にするような組織がなくてはならないのである。 われわれが理解しているのは、次のようなことである。
偽りの自己の発達を結果として生じるような、環境の側の適応の失敗。
退行のための潜在的な能力によって表される、初期の失敗の修正の可能性を信じること。この能力は、複雑な自我組織が存在することを意味している。
実際の退行が引き続き起こるような特殊化された環境の提供。
新たな前向きの情緒発達。これは後に記述されるような複雑な事柄を伴っている。
ちなみに私は、病歴に幼児的な行動が現れる時、退行という言葉をいつも用いるのは有効ではないように思う。退行という言葉は、われわれがあえて採用する必要がないような通俗的な意味を引き出してきた。精神分析の中で退行について語る時、われわれは自我組織の存在と混沌の脅威のあることを意味している。個体が記憶や思考や潜在的能力を貯える仕方に関して、ここで研究することはたくさんある。あたかも好ましい状況が現れて退行を正当なものとし、前向きの発達に向けての新しいチャンスを提供してくれることを期待しているかのようであるが、その発達とは、当初は環境の失敗によっては不可能、あるいは困難なものとなったものである。 高度に組織化された自我防衛機制、つまり偽りの自己の存在を含んでいるようなもののひとつとして、私が退行の概念を考えているということが理解されよう。上に述べたような患者では、この偽りの自己は徐々に“世話役的な自己caretaker”selfになったのであり、何年か過ぎて初めてこの世話役的な自己は分析者の手に委ねられ、自己は自我の下に従うことができた。 ある特定の環境の失敗に対して、個人がその失敗状況を凍結することによって自己を防衛することができるのは正常で健康なことである、という考えを、人間の発達について自らの理論の中に含めるべきである。改められた体験の機会が後日生じるだろう、という無意識的過程(それは意識的な望みともなり得るもの)が、このことには伴っている。その時、個体は退行状態にあり適切な適応を行っている環境の中にいて、失敗状況が解凍され、再体験されることが可能になるだろう。ここにおいて、癒しの過程の一部、つまり、実際健康な人においてもきちんと研究できる正常な現象の一部としての退行に関する理論が、提示されるのである。重篤な病人には、新しい機会が訪れるという望みはほとんどないかもしれない。極端な症例においては、治療者は患者のもとへ出かけ、積極的に良い母親的養育(マザーリング)を行い、患者には予想もつかなかったような体験を提供する必要が生じる。 健康な人が特定の早期の環境失敗を扱うやり方には幾つかあるが、私がこの論文で失敗状況を凍結すると呼んでいるものも、そのうちの1つである。これと固着点の概念との間には、つながりがあるに違いない。 精神分析理論でわれわれがしばしば口にするのは、前性器期の本能発達の過程において、好ましくない状況が個体の情緒発達の中に固着点を形成しうるということである。後の段階、たとえば性器優位の段階で、つまり全体的な人格が対人関係に関わっている時(そしてまたエディプス・コンプレックスや去勢恐怖について語ることが、きわめて普通のフロイト的な言い方である時期)、本能の性質の観点から見て、固着点において働くものへの退行へと不安はつながり、その結果として本来的な失敗状況がさらに強化される。この理論は、その価値が証明されており、日常的に用いられており、同時にそれを新たに見直しているからといって、捨て去る必要はない。〜