アトリエ・ka-gu展と【その始まりにおいて良い(心理学的な)環境とは、身体的なものなのであり、子どもは子宮の中にいたり、だき抱えられたりして、全般的な養育を施される。】
今日から、豊橋商工信用組合さんで、アトリエ・ka-gu展が始まりました!
親分が一人で準備して、夜勤前に持って行きました。
展示は豊橋商工信用組合さんが、してくださったようです。
あいちアールブリュット優秀作品展のパンフレットも置いて来たとのことでした。
自分は、明日夜勤なので、その前にのぞかせて頂こうと思っています。
今日は休みだったのですが、自分の受診の時間まで、間があったので、ファミマで100円のコーヒーを頂きながら読み、少しだけ現場のお手伝いをさせて頂き、豊橋の病院、まで行って来ました。受診はあまり待たなかったので、本は読めませんでした。
今朝、うたたねの看護師さんが、時間は作れば忙しくても作れる!と言っていたのに、同感です。
忙中閑ありですね。そのためには、そこそこ仕事が早くないといけないのかも知れませんが。
今日の箇所は、タビストックの乳幼児観察の重要性が、コンパクトにまとめられている感じがしました。
似たような言葉が沢山出ていますが、それだけウィニコットが重要だと思っている証なのでしょうか?
『言葉を換えるならば、早期の精神−身体の健康な発達のためには、完全な環境へのニードが存在するのである。当初においては、このニードは絶対的なものである。』と言うのは、現場で退行しておられる方に当てはまるように思われます。幼児まで退行されていたのなら、それなりに、乳児まで退行されているのなら、上記の様な支援が必要なのではないのか?と思えるわけです。
『特に彼女は、自分の赤ん坊を偶発的なことや、その子の状況把握の能力を越えているに違いないようなその他の現象から、隔離するように試みる。全般的に母親は単に乳幼児の世界をできる限り単純なものに保つのである。』は、母親が、乳幼児の外の世界で起こっていることを、分かり易くしてから乳幼児に戻してあげると言う事で、福祉の現場でもそのまま使えますね。分かり易くすると言うのが、福祉の現場での支援の基本の様な気もします。
音や声などに反応しやすい方には、簡単に聴覚過敏とか何とか、レッテルを貼りたがりますね?本当にそうなのでしょうか?その音がしていた時に、その方が不調を訴えていたり(言語で上手く表現できない方も多いですね)、不快感を持っていた時に、運悪くその音が鳴っていたいたとか、退行する原因を考えもせずに、聴覚過敏で済ませてしまうのは、納得いきません(笑)個人的な意見過ぎますでしょうか?自閉症の方々でも、聴覚過敏と言われているけれど、特定の音や数字・日にちなどに反応するだけで、聴覚過敏?ほんまかいな(笑)と思ってしまいます。
ノースカロライナに行った時に、ご一緒させて頂いた臨床心理士の方は、クライアントさんの退行がどこまでか?とか、固着点は?を探るために、アセスメントした状況を参考にして、生まれた時から現在までの大まかな人形をいくつか作って、それで原因を探ったと言っておられました。自分は、その時点では臨床心理学と言うものがどんなものか、全く知りませんでしたが、今になって、その方のその言葉がやっと理解できます。
心の理論
〜まずわれわれは、個体の早期の発達における健康とは、存在することの連続性continuity of beingを必然的に伴っている、ということを念頭に置こう。早期の精神−身体は、存在することの連続性が妨げられない限りにおいて、一定の道筋に沿って歩を進めるのである。言葉を換えるならば、早期の精神−身体の健康な発達のためには、完全な環境へのニードが存在するのである。当初においては、このニードは絶対的なものである。 この完全な環境とは、形成されたばかりの精神−身体、すなわち観察者であるわれわれが出発点において乳児だと思っているもののニーズに、積極的に適応するものである。悪い環境が悪いというのは、この適応に失敗することにより精神−身体(すなわち乳児)がそれに反応せざるを得なくなるような侵襲impingementになるからである。この反応することは、新たな個体が存在し続けることの連続性を乱すものとなる。その始まりにおいて良い(心理学的な)環境とは、身体的なものなのであり、子どもは子宮の中にいたり、だき抱えられたりして、全般的な養育を施される。時間の経過とともにようやく環境はたとえば情緒的とか、心理学的とか。社会的といった、新たな記述用語を必要とするような新しい性質を獲得していくのである。ここから、普通の良い母親ordinary good motherというものが現れてくる。そのような母親は、自らの献身が生み出すものとして、子どものニーズへの積極的な適応を行うという能力を備えているが、これが彼女の自己愛、彼女の想像、彼女の記憶によって可能となり、彼女が同一化を通じて、自分の赤ん坊のニーズが何であるかを知ることを可能とするのである。 良い環境へのニードは、初めは絶対的なものであるが、急速に相対的なものとなる。普通の良い母親とは、ほど良いgood enoughものである。もし彼女がほど良いならば、幼児は心的な活動mental activityによって彼女の足りないところを許容することができるようになる。それは単に本能的な衝動に応えるということに相当し、そこには陰性の世話や生き生きとした無視へのニードさえも、含まれるのである。幼児の心的な活動は、ほど良い環境を完全な環境に変える。つまり、適応の相対的な失敗を適応の生後へと変換するのである。母親が、ほとんど完全でなくてはならないという必要性から解放されるのは、子どもの側の理解によるものである。事態の通常の推移の中で母親は、子どもが理解して許容することが可能な範囲を越えて複雑な事柄を導入することのないようにしている。特に彼女は、自分の赤ん坊を偶発的なことや、その子の状況把握の能力を越えているに違いないようなその他の現象から、隔離するように試みる。全般的に母親は単に乳幼児の世界をできる限り単純なものに保つのである。
それゆえ心は、その起源の1つとして、精神−身体が気まぐれに機能することを有しており、それは環境側の(積極的な)適応のどのような失敗によってももたらされる脅威、つまり、存在することの連続性への脅威に関わるものなのである。ということは、心の発達は、偶然の出来事などを含んだその個体にとって特別個人的でないような因子に、非常に大きく影響されるということになる。〜