うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさんと、ももちゃんと、『抱えることと解釈』より


 夜勤明け、2時間くらい事務仕事をして帰宅したら、ねこさんが寝ていたので、自分も少しだけ仕事をして横になったら、15時になっていました(笑)おかげで心身ともに元気になりました。
 少し元気が無い方が、皆さんには受けが良いのですが(笑)
自分があまり仕事をやり過ぎても人が育たないしなあ〜と思うこの頃です(笑)


 昨夜は、重度の方をお預かりさせて頂いていましたが、特に問題なく、重度の方の居室に皆さん来られて、沢山話をしたり遊んだりしていたら、ももちゃんが写真を写してと、自分が描いた物や、チラシを切ったものを並べてみせてくれました。
 何となく良い感じ!創造力の豊かさに(何回か色々な物を並べていました)自分もそろそろ創作活動を再開しようかと思いました。
 蛍光灯を電気屋さんにお願いしたので、それを契機に頑張ります!
いつも皆さんに触発されています。
 個人名が沢山書いてあったので、敢てぼかしました(笑)


 こちらは、先日行った砂浜にあったものです。
作品にしたいと思い、写真を撮りました(笑)



 名古屋に行った時に、電車の中で読んだ『抱えることと解釈』の序の部分からのアップですが、序だけでも長く(本編は治療の記録なので解説になっています)それだけでも読んだ気になってしまいます(笑)知ったかぶりするには最適な(笑)序文ですね。
 しかし、アップさせて頂く部分は、そこで引用されているウィニコットの論文からです。
 自分の復習のためにもアップさせて頂きました。


『抱えることと解釈』精神分析治療の記録 
 D,Wウィニコット著・北山 修監訳

 M,マシュード・R,カーン

「(私は、乳房が母親の愛の運び手として欠くことができないものと主張はしていないが)赤ん坊と母親の乳房の観点から見れば、あかんぼうは切迫した本能的欲求と食肉的predatoryな考えをもっている。母親は乳房を所有して、ミルクを作り出す力をもつものであり、そしてお腹のすいた赤ん坊によって食いつかれたいという考えももっている。母親と子どもが一緒に1つの経験を生きるようになって初めて、これら2つの現象は互いに関係をもつことになる。成熟していて身体的に有能な母親は、寛大で理解のある人でなければならない。そのため、幼児が外的対象との間で作る最初の絆に運よくなるかもしれないような状況を作り出すのは彼女なのである。その対象とは、幼児から見て自分に対して外的である1つの対象なのである。
 私はその過程を、あたかも互いに反対方向からやってきて、近づこうとする2つの線のように考えている。もしそれらが重なり合えば、そこには錯覚illusionの瞬間がある。それは幼児が自分の幻覚か、もしくは外的現実に属するものかのどちらかにもとることのできる経験の断片なのである。」

「健康なよちよち歩きの時期toddler stageの特徴である対人関係をつくる能力に達した子ども(または成人)は、抑うつポジションを今まさに通りぬけ、そして超えたのである。そのような子ども(成人)に対しては、無限に変化する三角関係的な人間関係についての普通の分析が可能である。他方、人格の統合という生まれつきの問題と環境との関係を開始することに主に関わり合っている子ども(または成人)は、個人的な発達においてまだ抑うつポジションには到達していないのである。
 環境の点からみると、よちよち歩きの子どもは家族状況の中にあり、対人関係において本能的な生活を苦心して成就しており、そして赤ん坊は自我ニーズに適応してくれる母親によってだき抱えられいるというよりも、それ以上に、生きている間中ずっと抱えられ続けているのである。時間的要因がすでに介在していることが、注目されるであろう。幼児が本能的な経験の結末を徹底処理work throughする機会をもっているようにと、母親が状況を抱えるhold a situationのである。この徹底処理というものは消化過程に全く匹敵しており、同じように入り込んでいるのである。
 母親はその状況を抱えている。そして、それを繰り返し繰り返し危機的な時期において行っているのである。その結果は、何かについては何かがなされうるようになるということである。母親のこの技術が、幼児の中に併存する愛と憎しみとを分類し、お互いを関連づけ、健康な方法で徐々に内側から統制下に置くようにするのである。」