うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね茶会と、いちごの花と、【こうして本能発達に関して、2種類の退行という考えが生まれた。1つは早期の失敗状況に戻ることであり、もう1つは早期の成功した状況に戻ることである。】



 桜餅が手に入ったので、今日の日中では、うたたね茶会をしました。
お抹茶が開封されていたので、早めに点てた方が美味しいので、ちょうど良かったです!


 自分は、15時には渥美に走り、学齢児さんの入浴介助に行きました。
少し時間があったので、いちご畑の雑草を抜いていたら。いちごの花が咲いていました。
 いつも少しずつ咲いて、4月になれば沢山咲くので、いちごも一気にできてしまい、最初は皆さん喜んでくれるのですが、最後の方は、段々腹いっぱいと言われてしまいます(笑)この暖かさと、金曜日の雨で、株が一気に大きくなりそうですね!去年の夏場に、新しい株を、万遍なく植えつけたので、去年よりも沢山できそうですね(笑)





 本は、学齢児さんのバスを待つ間に読みました。なぜか集中出来て沢山読めました!

 とりあえず、環境の失敗まで遡れば、ますますその人自身の失敗は少なくなり、ついには環境の失敗だけとなる(仮説)。のでしょうか?そうしたら、環境を設定で作りなおして、母親的養育をやりなおせば(徹底通過して)、光が見えてくるのでしょうか? 
 徹底通過というのは、個人的にはオペラント化的な臭いがしますので、精神分析と言うのは(その逆も然り)、行動療法的なことも考慮に入れて行わなければいけない(マーガレット・リトル先生も仰ってましたね)という事になりそうです。
 クラインやウィニコットが、自分の中にすっと入ってくるのは、なぜなのか?はまだ自分では分かりません。勿論100%の理解は出来ていませんが.......。


『こうして本能発達に関して、2種類の退行という考えが生まれた。1つは早期の失敗状況に戻ることであり、もう1つは早期の成功した状況に戻ることである。』

『環境の失敗状況が問題となるような症例でわれわれが見るのは、その個人によって組織化された個人的な防衛personal defenseの証しであり、これは分析を必要としている。より正常な、早期の成功した状況を有している症例でわれわれがさらに明確に見て取るのは、依存の記憶であり、それゆえわれわれは、個人的な防衛の組織よりはむしろ環境の状況に出会うのである。』

『それはつまり、理論上の発達の開始に遡るにつれ、ますますその人自身の失敗は少なくなり、ついには環境の失敗だけとなるという仮説である。』

『つまりわれわれが関心を持つのは、単に個々の本能体験についての良い地点や悪い地点への退行のみではなくて個人の歴史における自我ニーズやイド・ニーズに対する環境側の適応についての良い地点や悪い地点への退行なのである。』





 〜私はこの症例を、退行が症状となっているような通常の例として提示している。その退行とは、外傷が明らかに存在する固着点へのものなのである。 より正常に近い場合には、個人が後から段階で困難が生じた時に戻れるような良い前性器期以上状況が存在する、と仮定する必要が生じることを分析家たちは見いだしている。これは健康な現象なのである。こうして本能発達に関して、2種類の退行という考えが生まれた。1つは早期の失敗状況に戻ることであり、もう1つは早期の成功した状況に戻ることである。 これらの2つの現象の差異について、十分な注意が払われてこなかったように私は思う。環境の失敗状況が問題となるような症例でわれわれが見るのは、その個人によって組織化された個人的な防衛personal defenseの証しであり、これは分析を必要としている。より正常な、早期の成功した状況を有している症例でわれわれがさらに明確に見て取るのは、依存の記憶であり、それゆえわれわれは、個人的な防衛の組織よりはむしろ環境の状況に出会うのである。それまで個人的な組織かまさほど明らかでないのは、それがなお流動的であり、防衛的ではないからであるだろうここで私が延べなくてはならないのは、私が以前からしばしば立ててきたが常に受け入れられているとは決して言えないような仮説に依拠している、ということである。それはつまり、理論上の発達の開始に遡るにつれ、ますますその人自身の失敗は少なくなり、ついには環境の失敗だけとなるという仮説である。 つまりわれわれが関心を持つのは、単に個々の本能体験についての良い地点や悪い地点への退行のみではなくて個人の歴史における自我ニーズやイド・ニーズに対する環境側の適応についての良い地点や悪い地点への退行なのである。 われわれは、性器や前性器期は諸段階の観点から本能の性質の発達について考えることができ、退行という言葉に単に前進の逆戻りの意味で、性器から男根へ、男根から排泄へ、排泄から摂取ingestiveへと戻る旅として用いることができる。しかし、この方向にわれわれの考えをいかに推し進めようとも、非常に多くの臨床的素材が理論的枠組みに当てはめられないことも認めなければならない。