うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

歯科検診と、小夏と、石灯篭と、第13章 逆転移のなかの憎しみⅡ


 土曜日にホームの方々の歯科検診に行って来ました。
虫歯はありませんでしたが、歯垢やステインがあったので、ご指導を受けて帰って来ました。
 ショートステイの方々は、重度の方が多いので、手厚くケアさせて頂いていましたが、ホームの方々は、全然見させて頂いていないわけではないのですが、100%ではなかったということですね。反省して職員全員に指導内容を話して、100%近くになるまで頑張らせて頂きます。
 体を触らせてくれない方がいたり、特定の職員しかさわらせてくれなかったりですが、みんなで考えて行けたらと思って居ます。
虫歯がなかったのが、何よりですが!



 先日、帰宅時に、ねぎを買って来いと言われ(笑)近くのスーパーによったら、小夏が売っていました!高知出身の継母に教えてもらい、美味しさを知っていたのでついでに買って帰りましたが、親分が食べると言っていました......。少しもらいましたが(笑)美味しかったです。
出る時期がほんのひと時なので、明日、もう店に並んでいないかも知れませんね。本当に旬の物です。



 すろーじゃむの近くにある神社の石灯篭をよく見ると、茶碗と茶筅

 五徳が彫られていました!
しかもその下は、ハートが(笑)良い事が起きそうな灯篭ですね!

 全体像です!



 今日も色々あり(笑)むかつきました(笑)(またもや取り巻きですが....)
この絵が出たら、嫌な事があったと思って下さいね(笑)
 嫌な事が有ったら、せっせとお茶を点て、ギターを弾きまくりますが、今日は法人の決算が出たので、総会や、県に提出しないといけない書類を作っていました。
 思いっきりギター(ルパン三世のテーマをブロックコードの中にメロディを入れて、ストレス発散できるように、思いっきりピックでストロークできるようにアレンジしています)を約20分弾いてから、書類作成!(笑)でもまだできていません.....。明日は夜勤なので、現場に入るまでには完成したいと思っています。総会の日も近づいています。

 今年は、この絵でTシャツを作ろうかな(笑)
坂本龍一先生は、ブロックコードが嫌いでしたね。音が団子になって汚いと.....。自分はウェスモンゴメリーのレコードをコピーしていて理論などまだ知らない17歳の時に弾いていました。曲名を探していますが中々見つかりません。廉価版のLPだったからでしょうか?
真珠が付いていたような記憶がありますが......。自信がありません(笑)
 
またまた、第13章 逆転移のなかの憎しみ からの引用です。


『小児医学から精神分析へ』第13章 逆転移のなかの憎しみⅡ
〜分析家が自分に負わされる生々しい感情を経験するつもりなら、前もって注意し、あらかじめ備えるのが最善である。なぜなら、分析家はそういう状態に置かれることを容認tolerateしなければならないからである。とりわけ、実際に自分の中にある憎しみを否認してはならない。当面の状況で自分のものとして自覚され、正当化されるjustified憎しみは、整理され保管されて、いつかは行うことになる解釈に使えるようにしなくてはならない。
 もし、われわれが精神病者の分析家であることができるようになるとすれば、自分の中の非常に原初的な事柄にたどり着いていなければならない。そして、それはただ単に、精神分析の実践にまつわるはっきりしない問題に対する答えは分析家自身がもっと分析されることの中で求められる、という事実のもう一つの例にしか過ぎない(精神分析的な探求researchとは、おそらくいつもある程度は、自分の分析家が連れていってくれる地点よりも、もっと先へと、自分自身の分析の仕事を進める分析家側の試みなのである)。
 どんな患者に対する分析でも、分析家の主な仕事は、患者が持ち込んでくるすべてのものに関心を示して客観性を維持することであるが、その特別な例が、患者を客観的に憎むことができねばならないという分析家の憎しみが正当化される状況は多くはないのだろうか?重症な強迫を持つ私のある患者は、数年の間、私にとってはほとんど胸の悪くなるほど嫌いな患者だった。分析がある曲がり角に差しかかり、患者が愛すべき人になるまで、私はこのことを悪いと感じていた。それから私は、この感じの悪さが1つの積極的な症状で、無意識に決定されていたことを理解した。それは、私にとって実に素晴らしい日だったが、(ずっと後になった)その日、私と彼の友人たちは彼に拒絶されると感じてきたけれども、そのことをわれわれに彼に知らせるには、彼があまりにも病気であったということを、私は実際に患者に話すことができたのである。これは患者にとっても重要な日となり、患者が現実への調整を行う中で大変な進歩となった。
 普段の分析では、分析家は自分の憎しみを処理することに何の難しさもない。その憎しみは潜在的なままである。もちろん、中心的なことは、自分自身の分析を通して、分析家が過去や内的な葛藤に属する無意識的な憎しみの巨大な貯蔵庫から自由になっていることである。なぜ憎しみが表現されないままで、憎しみとして感じられないことさえあるのかということについては、さらに次のような理由がある。
分析は私の選んだ仕事で、私自身の罪をもっとも良く処理することになると感じる方法であり、建設的に自分を表現できる方法である。
 わたしはお金を得ている。あるいは、精神分析的な仕事によって社会的地位を得るための訓練の最中である。
 
 わたしは物事を解明しつつある。
 私は、患者との同一化によって直接的な報酬を得ているが、患者は進歩しつつあるし、私は前途、すなわち治療の終了時にますます大きな報酬を見出すことができる。 

 さらに、一分析家として、私には憎しみを表す方法がある。憎しみは〝面接時間″に終わりが存在することで表現される。
 これは何の面倒もない時でさえも、そして患者が終ることを喜ぶ場合でも、本当だと私は思う。多くの分析において、これらのことは当然のこととされているので、触られることはほとんどなく>分析の仕事は患者の表す無意識的な転移を言語的に解釈することによって行われる。分析家は、患者の子ども時代に、患者にとって役に立つ人物だった誰かの役割を引き継ぐ。分析家は、患者が幼児だった時に汚れる仕事をしていた人びとの成功を活用して、儲けるのである。〜