うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ほたる狩りと染付けの器と、ウィニコット


送迎スタッフのK氏は藤七原周辺のホタルの整備や環境保持の活動をされて、見事だよと話をしてらしたので、今年は行くぞとK氏から情報をいただいて、昨晩ついにK氏の直接の案内で夜7時過ぎに清谷川上流のK氏ご自宅前の小さな橋のたもとで集合。ホーム2名はドラゴンズの中継があるので欠席でしたが、ホーム3名とその日の夜勤者おっちゃんと親分とヒーヒー王子でホタル狩りしました。
親分は高度成長期に幼少期でしたので、田原は農薬でホタルを見たことがなく、大学で京都にいた際、平野神社の近くの小川で初めて初めてホタルを見ました。
清谷川のホタルは田原でも有名で、昨晩も橋のたもとに人が三々五々と集まり、暗い川面を覗きこんでいました。
街灯が一切ない 川を挟んだ民家の横の小路をみんなでホタルが乱舞するなか、涼やかな風を感じ30〜40分そぞろ歩きました。
暗闇の中、川音を聞きつつ見事な数のホタル。
これはボーリング大会とならび うたたねの恒例の行事となるでしょう。 

以上、親分でした!



 まりちゃんの手の中にホタルを入れて見ました!

 上手く写真が撮れず、全然伝わらないですが、見事なホタルでした!

 行事毎に皆さん情が移ってしまい、まりちゃんが、晴君帰らんとき!淋しくなるでなんて声が聞こえていました。


 少しずつ染付の器が集まっていますが、骨董屋さんと言うより、古道具屋さんですね! 高級感が全然ありません(笑)
 でも不思議、カーグの作家さん達の手に掛ると、素敵な作品になります!




 今の自分の感覚が、鋭くなりすぎているのか?(笑)どこを読んでも、ブスブスと胸に刺さってしまいます。



第13章 逆転移のなかの憎しみより
〜分析家は、おそらく長い期間にわたって、彼自身のしていることに対するなんらかの理解を患者に期待することなく、重圧に耐える覚悟がなくてなならない。そうするために、分析家は自分の恐怖と憎しみを抵抗なく気づいていなければならない。分析家は、まだ生まれていない子や生まれたばかりの子を持つ母親の立場にある。最後には、分析家というものは、患者のために何を経験しているかを患者に話すことができなければならないわけだが、分析が決してここまで到達できないこともある。患者の過去に、あまりにも良い体験が少なすぎて、それに取り組むことができないのかもしれない。分析家が転移の中で利用する早期乳児期の満足な関係が、もしないとしたら、いったいどうなるのだろうか?転移の中で発見しうる早期の満足した体験を持つ患者と、非常に
早期の体験があまりにも不充分であるあるかまたは歪められているために、分析家が患者の生活に一定の環境の不可欠物を初めて供給しなければならない患者との間には、大きな違いがある。後者に属する患者の治療では、分析技法におけるあらゆる種類の事柄がきわめて重要になるが、それらは前者の患者の治療においては当たり前のことと考えられる事柄なのである。
 私が同僚に、部屋を暗くして分析を行っているかどうか尋ねたところ、彼は言った、「そんなことはないよ、一体どうして!確かにわれわれの仕事は普通の環境を提供することであり、暗闇は普通のことじゃあないだろう」。
彼は私の質問に驚いていたのである。彼は、神経症者の分析を念頭に置いていた。しかし、この普通の環境ordinary environmentの提供とその維持は、精神病者の分析では、それ自体がとても重要になるはずで、事実それは、同様に行われる。神経症者にとっては、寝椅子や暖かさや心地よさは、母親の愛情を象徴するものになりうるが、精神病者にとっては、これらのものが、分析家の身体的な愛情表現そのものであると言うのが真実に近いだろう。寝椅子は分析家の膝や子宮そのものになり、暖かさは分析家の身体の生きた暖かさそのものになる。その他のことも同様である。 
 私の主題に関する記述が前に進んでいることを望む。分析家の憎しみは普通は潜在的で、容易にそのままにされやすい。精神病者の分析では、分析家は自分の憎しみを潜在的なものにしておくために、大変な重圧かに置かれるし、それを徹底的に気づくことで、初めてこれを行うことができる。特定の分析の段階では、分析家の憎しみが患者から実際に求められるが、そこで求められるのは客観的に存在する憎しみであるということを付け加えておきたい。もし、患者が客観的な、あるいは正当化される憎しみを求めながら、患者はそれにとうたつできねばならないのであり、そうでないと、客観的な愛情に到達できると感じることもできないのである。
 おそらく、ここで崩壊家庭の子どもか、親のいない子どもの例を引用するのが適当である。そうした子どもは、無意識的には親を探すことに時間を費やしている。その子どもを家庭に引き取り愛することだけでは、周知のごとく不適当なことである。そこで起こるのは、しばらくすると、養子になった子どもが望みを得て、次に自分が見つけた環境を徹底的にテストし始め、保護者に客観的に憎む能力があるかどうかについての証拠を探し始めることである。彼が憎まれることに達してから、初めて愛されることを信じられるということのように思われる。〜