うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

桜と『ピグル』まえがきとして(北山修)と、昨夜のニュース


 4月が始まりました!今日は日勤の予定が、職員が体調不良なので(またもや男性職員(笑)女性は強いですね!)親分が日勤(働き過ぎかも....)自分が夜勤に回りました。
 日中時間が空いたので、溜まっている事務仕事をと思いましたが、事務所に行かないと出来ないことに気づきました(笑)
 しかたないので?私用で外に出たら、桜が綺麗でした!

 昨夜親分が買って来てくれた桜餅で、お薄を点てたらネコさんが覗きに来た様子です(笑)
 体が弱るとなぜか猫がまとわりついてきます(笑)攻撃されないと安心するのでしょうか?普段いじめているわけでもないのですが、不思議ですね?



 自分の勉強用に残しておいた物を端折ってアップさせて頂きます。

 ウィニコットサリヴァンを読ませて頂いて、この理念を本当に理解しておられる方々が、子どもでも分かるような言葉にして、小中学校で教えたら、もっと人の命を大切に思える人間が増えるのにと思いながら読書を続けさせて頂いています。


『ピグル』まえがきとして
北山修
重ね合わせという方法
 こういう、どちらなのかと問う二分法的な書き方が多い精神分析の中で、D.W.ウィニコットの提示法は際立つのです。それは『抱えることと解釈』という書名に表れる通りで、分析や解釈を「すること」だけでなく、「いること」を可能にする「場」のマネージメントや「抱えること」「環境の提供」が平行するのです。 二つは違うのもですが、臨床においては重ね合わさって同時存在するのです。そして、移行対象や遊ぶことを説明するときの、彼の逆説的な書き方をご覧ください。あの内でもあり外でもあり、外でもなく内でもないという、概念の重ね合わせはウィニコット理論の特色だと言えそうです。〜

〜私は、この二分法世界でウィニコット理論に接するなら、凡人にはあれかこれかと考えて葛藤し迷うという体験が欠かせないと思うのです。たとえば退行する患者や重症の患者には、その収まりの悪さや依存のためにウィニコットのいう「設定setting」や「環境の提供」が意味を持つのは当然ですが、治療構造を動かす創意工夫には、迷いや葛藤が欠かせないと思うのです。〜

二者言語と構造以前
 つまり母親という存在に、乳房と抱える腕という、対象と環境とが非対称的に同時に存在しているので、この同時存在の総合的把握がややこしく、知的には対象関係と環境論という具合に二分法的に語られることになるでしょう。良いか悪いかならば「あれかこれか」で対照的・対称的ですが、対象と環境は非対称なので「あれとこれ」となり提示が難しいのです。
 そしてこられを言葉で何とか組み合わせて描写する議論こそ「エディプス・コンプレックス」が展開しやすところなのです。そして、言語こそエディプス構造を具体化する代表であり、このことは精神分析を実践する者なら共有している理解でしょう。言語というエディプス構造の実在を説明するのあたり、私たちは、発達段階として「言語以前のことば」を認めます。精神分析の世界でその「ことば」を言葉で表現するには詩的なレトリックが求められ、ウィニコットはこれを行う達人でしょう。〜

〜本書では珍しく一箇所だけ、治療者を変更するかどうかで葛藤し迷うところが出てきます。しかし実際のところ、これらは誰にでも容易にこなすことができ、困難は回避できるところでしょうか。舞台が変わると劇が壊れ、額が動くと絵が収まらなくなり、土俵が動くと相撲が変わるという現象があるはずです。だからそこに求められるのが、多くは葛藤と困難を伴う創造なのだというのではないでしょうか。私は、普通はそういう葛藤こそ人を創造的にするのだと考えます。



 昨夜ネットでみていたニュースで考えさせられました。
そのまま張らせて頂きます。

<福岡県>「売れ残り」貧困の子へ 「偏見助長も」現場危惧 毎日新聞 3月31日 13時42分配信 

 子どもの貧困対策の一環で、福岡県は2016年度、コンビニエンスストアから消費期限間近のパンなどを譲り受け、NPOや支援団体を通じて困窮層の子どもたちに提供する取り組みを始める。都道府県初の試みとして注目されるが、現場の支援者からは廃棄対象食品を子どもの支援に結びつけることに疑問の声も上がる。

 県によると、コンビニチェーン各社の多くは、消費期限が残り1日程度に迫ったパンなどは店頭から下げ、廃棄する。県の計画は、そうした食品を無償で譲り受け、NPO社会福祉協議会などが困窮世帯を対象に開いている学習支援の場で子どもたちに食べてもらう。コンビニにはNPOなどのスタッフが受け取りに行く。

 県は人件費や備品購入などの経費として、1カ所につき20万円を助成することにしており、16年度予算に13カ所分として計260万円を盛り込んだ。

 計画には、県内で学習支援に携わる団体のスタッフも「今日、明日食べるものにも困る絶対的貧困下の子どもにとっては一つの手段になる」と一定の意義を認める。一方で「売れ残り」の食品を使って公的に支援する仕組みが、困窮家庭の子どもたちへの偏見やいじめを助長したり、子どもたちのプライドを傷つけたりしないか危惧する関係者も少なくない。

 「効率ではなく、こどもとその家族の尊厳を守ることが最優先。『ない』よりマシの考えはよくない」。中卒や高校中退の若年層を無料の学習指導や食事提供で支援する「ストリート・プロジェクト」(福岡市)の坪井恵子理事長が県の計画公表後、フェイスブックに書き込むと、普段の10倍近い2600人ほどに読まれ、共感を寄せる投稿も相次いだ。

 同県内でフリースクールを主宰する工藤幸安さん(55)も「困窮が原因で差別を受け、学校に行けなくなる子がいる。食事一つとっても、きめ細やかに対応する必要がある」と言う。

 「なくそう! 子どもの貧困」全国ネットワーク世話人で、千葉明徳短大の山野良一教授(児童福祉)は「子どもの貧困の本質は税金の投入が少なく、公的資源が子どもに十分に届いていないことにある」と指摘する。

 こうした声に対し、福岡県保護・援護課は「支援する大人が手渡して見守ることで、心もおなかも膨らむ効果はあると考えている」と話している。 青木絵美

 


 自分が困窮していた少年時代だったら、喜んで食べたでしょう。
その時の夢は、『大人になって初任給をもらえたら、おまんじゅうを腹いっぱい食べる』ことでした。
 自分の経験からしか言えませんが、普通の感覚(考え)になれるのは環境が普通じゃないとなれません。 その分、サリヴァンウィニコットも真に迫って自分の中にすごい勢いで入ってくるのでしょうか?