春ですねと、ほど良い分析と、やっとかめのメルマガと、岡君
又もや体調を崩して皆様にご迷惑をお掛けしました。
今日、受診の為、豊橋まで出たら桜が大分咲き始めていました。
皆さんはご存知でしたね(笑)
お茶道具も少し春らしく。
おっちゃんは水・木の休みも安静にしていたので下界のこと等(笑)知りませんでした。
お抹茶がなくなったので、病院の近くにあるお茶屋さんに行って来ましたが、なにやら忙しそうでした。お金を支払おうとカウンターを見ると、豊橋市民茶会があるのですね。前売り券が売っていましたが、土日は時間が取れなくて諦めました!
二日で『ピグル』と『錯覚と脱錯覚』を読ませて頂き(ピグルは1/3は読んでいました)『クライン入門』に入った所ですが、これが入門って感じです(笑)サリヴァンも強敵?でしたが、クラインも中々のもんです。本当はウィニコットの『小児医学から精神分析へ―ウィニコット臨床論文集』を読んでからクラインに入りたかったのですが、予算の関係もあり、クライン含め、後二冊読んでからにします。
自分なりに理解できて学べたことが沢山ありましたが、一番印象に残り、現場に持って行きたいなと思った箇所だけアップさせて頂きました。
『錯覚と脱錯覚』(ウィニコットの臨床感覚)北山修著
第9章 治療者のいるところで体験する事
4,ほど良い分析
年齢に応じてほど良い成熟というのもがあるように、子どもにはもちろん、大人も病気の場合はその病状に応じたほど良いニーズの満足というものが認められなければならない。だからある人びとにとっては「やりすぎ」「甘やかしすぎている」という印象をあたえても、それがその年齢、発達段階、病態に対応するものであるという精神分析的理解に基づくものであれば、治療者の態度は一貫しているということができるのである。つまり、彼にとって分析家はその読者たちと共有する客観的地平から見える地図の中でいつも同じところにいるというのではなく、患者のニーズを推し量りながら、それに合わせて患者から見た限りにおいて同じ距離にいようという、つかず離れず寄り添いながらの「ほど良さ」を維持しようとしている。治療者は患者の主観からはいつも同じ距離にいて、そこに当てにできて役に立つものとしている「いつでも役にたてる母親always available mother」のように、患者の主観からのほど良い中立性であり、その中立の軸はやはり日常言語でほど良いと言われる程度までには良い方へ傾いていることになり、このことによってほど良い陽性転移が維持され続けることになる。つまり、それまではほど良く60%の適応はxだけ脱適応して‘60-x’の適応となるという「つりあいのとれた」感覚によりほど良い関係は維持される。逆に、患者がyの分だけ退行するなら、治療者は60%から‘60+y’の分だけ適応するのである。また、患者のキャパシティの発達に応じて、治療者はその分だけ脱適応して患者の自立への方向性が支持される、彼が「ほど良い分析家」の適応というときは、このような患者のニーズへの適応をさしており、そのためにはこれに応じている治療者は「分析家による非分析的な仕事」にまで着手せねばならないと言うのである。
〔これに「ついていけない」「とても真似できない」という治療者や分析家は、けっしてウィニコットを真似すべきものではなく、また真似などできるものではないとウィニコット自身が断っている。もし、患者のニーズに治療者が「ついていけない」程度まで合わせようとするなら、必ずそこに適応の不連続が生じることになる。そして、転移神経症や転移精神病における発達初期の原初的防衛機制を言葉で取り扱って、部分対象関係、被害的不安、発達初期への退行とされる思考障害などを母子関係のものとして言語化し解釈するクラインたちには、彼自身もついていけず、理解はしても実践ではその真似ができなかったのである。ついていけないものは、真似できないし、小児の心性にはついていけるところまで、母親のようにほど良くついていこうとしたのである。さらに、すでに一部の読者もそうであるかもしれないが、筆者にとって、ウィニコット理論の理解はできても、いやその理解もおぼつかないで、具体的な技法についていけないところがるるのは当然である。パーソナリティの異なる分析家が「十人十色」の患者を対象とする限り、対象を精神分析的に理解しようとする試みはどのような場合も怠るべきではないが、実践においては同じ分析家などいるわけがないし、同じ治療もありえないというのがウィニコットの強調するところなのである。〕
ウィニコットの素晴らしさ、凄さは当たり前でしょうが、北山修先生も恐ろしく?感じてしまいました。お名前を見ているだけで京都を思い出してしまうのは、京都に長くいたからでしょうか?
忘れた頃に、九雀師匠のメルマガがやってきましたが、なんか消化不良......。嬉しくて飲まずにはいられなかったのですね(笑)
弟子が来ました
こんにちは。
書いている今は3月31日になったばかりの夜中。
黒伊佐錦を呑みながらです。
3月1日は私の入門の日でした。
37年経ちました。
ここ数年、この日は伝統芸能館で
浅野美希ねえさんのお唄をはさんでの
「こんな形でやっていきます」という表明的な
いきなり!(^^)!九雀の日をやってきました。
ただ美希ねえさんも、他のほうのお名前をもらったり、
また唄うことが負担になっているように見えたりしましたので
今年は違うことをしようと思っていました。
そんな折り、うちに弟子っ子が来ました。
名前は、長男が5歳の頃から二人で考えてありました。
誰が来ようとも、「九」雀「の」「一」番弟子ですから、「九ノ一」。
そして3月1日が九ノ一の初舞台となりました。
さらにこの日が彼(九ノ一ですが女ではありません)の内弟子修行のスタートでもあります。
おっと、ここまで書いて、酒量と睡魔が限界です。
続きはまた。
◎九雀通信 のバックナンバーはこちら
⇒ http://archives.mag2.com/0001341814/index.html
先日、同級生のむ雀師匠(岡君と言った方が自分的には良いのですが,彼の立場上師匠の方が良いのでしょうか?)のブログを見させて頂いたらこんな記事が貼ってありました。
ピアノまでやり始めたんだ!
羨ましいくらいの仲間に囲まれて彼は本当に幸せそうです!
早く一緒に演らせていただきたいですね!
頑張れ! 岡君!
やっぱり岡君の方が力が入ります。中学生の時、サッカーで靱帯断裂した時に、ある程度回復するまで(全治2ヶ月でした)家まで付き合ってくれたり、小学校6年の時に阿倍野から堺市に転校してきたときにも、一緒に散髪行こうと積極的に声を掛けてくれた優しさ、まだ覚えています。小中の時は米朝師匠に憧れていたようですが(実際弟子入りしようとされていました)高校出たら枝雀師匠に弟子入りされていて、大阪では見せて頂く事は出来ませんでしたが、京都芸術会館では高座を見させて頂いて、楽屋まで押しかけようかと思いましたが、自分は染織の世界でまだ弟子だったので、一人前になったらいつか会いたいと思いながら(勝手にですが(笑))まだ願いが叶っていません。そんな気持ちを知って親分が九雀師匠が岡崎市に来られた時に繋いでくれたまま......。こちらこそ頑張らないといけません!