うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

鉄アレイと、今日の生け花?と中間領域

 受診後、リサイクルショップに行って、前から欲しかった、鉄アレイを800円で買ってきました。3kgと5kgがありましたが、50kg前後の方の入浴介助を一人でさせて頂いているので、3kgは重みを感じなくて5kgにしてみました。生まれて初めて買いました(笑)ネットで早速使い方(それぞれの部位の筋肉の付け方)を調べて、30分くらいさせて頂いたら、気持ちよかったです。
 本を読みながらも、部位によっては出来そうなので、時間を見つけてやらせて頂こうと思います。

 今日は休日だったので、朝はゆっくり起きて、ひーひー王子との散歩もスロージョギングで行い、形の良い枯れすすきがあったので、頂いてきました。(枯れそうな椿も)
 いつもの大家さんの倉庫の入り口だと、すすきの色が目立たなかったので、倉庫の外壁をバックに写させて頂きましたが、夏みたいですね!
 お約束の親分のダメ出しもいただきました(笑)
 
中間領域(intermediate zone)
 精神分析の論文や、フロイトの影響を受けた膨大な文献には、対象と関係するものとしての人間の生か、あるいは個人の内的な生か、どちらか一方について考える傾向がみられる。対象として関係している個人の生には、本能-満足へと駆り立てる緊張状態か、あるいは充足の安逸に浴している状態か、そのどちらかが仮定されるという前提になっている。さらに完璧を期した言い方をするためには、置き換えや、あらゆる昇華機制といった概念も用いられることになるだろう。興奮が満足に結びつかなかった場合、人は欲求不満が引き起こす不快にとらわれる。この不快には、身体的機能障害や、罪悪感、あるいはスケープゴートや迫害者を発見することによる安堵も含まれる。
 神秘的な体験について言えば、精神分析の文献によると、私たちがいま見ている人間と言うのは、眠って夢を見ているか、あるいは目が覚めていれば夢作業にかなり近い過程を覚醒のうちに体験しているか、そのどちらかなのである。そこにはあらゆる気分があり、その気分の無意識的空想には、一方では理想化から、他方では良いものすべての破壊という恐怖まで、大いに幅がある。これらは、有頂天か絶望か、あるいは、身体的な健康か病気の感覚や自殺衝動か、といった両極端をもたらすのである。〜

〜「私たちは何をしているのだろうか?」だけではない。「私たちは(もしどこかにいるとすれば)どこにいるのだろうか?」という問いも提起される必要がある。私たちは内側と外側という概念を使ってきたが、第三の概念が必要である。私たちが実際のところ非常に多くの時間、自分たちのやることをやっているとき、つまり楽しく過ごしているとき、私たちはいったいどこにいるのだろうか?昇華という概念は本当にあらゆるパターンを説明できるのであろうか?「内的」と「外的」という用語では適切に言い表すことのできない、生きていることの場所が存在する可能性を検討することによって、私たちに何か得るところがあるだろうか?〜

〜これらとは対照的に、生きることの第三の方法の展開が利用できる領域(文化的体験や創造的に遊ぶことがあるところ)は、人によって極度に多様であることを私は示唆したい。なぜなら、その第三の領域は、取り巻く環境のなかで個々の人間(赤ちゃん、子ども、青年、成人)の体験の産物だからである。そこには特有の多様さがあって、それは内的でパーソナルな心的現実や、外的あるいは共有された現実の現象にみられる多様さとは質的に異なっている。この第三の領域の広がりは、実際の体験の総量に応じて、非常に小さい場合もあれば、著しく大きい場合もある。〜



 強引に端折ってしまいましたが(笑)ご興味のある方は、来週中には事務所に持って行くので、読んでみてください。最初から読んで頂くとより理解が深まります。

最近は、自分がどこでも復習出来る様に、アップさせて頂いている感がありますが(笑)