うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

「物来って我を照らす」


 今日は金曜日なのに珍しく休みになっていたので、昨夜何回もシフトを見なおしました(笑)
大変な金曜日に自分が要らないというのは、大変素晴らしい事だと思いましたが、こんな日が来たら、きっと寂しさを感じるのかと思って居ましたが、逆に嬉しくなりました!
それだけ職員が育ったという事ですから!

 しかし、そうは問屋が卸しませんでした(笑)現場には入りませんでしたが、送迎(現場か?)や事務的な事、年末チャリティーの準備や打ち合わせ等々仕事はいくらでもありました.......。

 きりをつけて自宅に帰りしなに、借りていた本を返しに図書館に行ったら、新刊紹介の所に読みたい本があり、手に取り受付に行こうとしたら、木村 敏先生の本が目に入りそちらも借りてしまいました。

 高校生の時に読むのを挫折した、西田幾多郎の事が沢山出て来ましたが、今触れると、少しは理解できそうな感じがしたのは、今の自分に必要な物だからでしょうか?同姓だという事だけで読もうとした自分が馬鹿だったのか(笑)

 序論に代えてと第一章だけ読ませて頂きました。(サリヴァンをホッタラカシにして.....。)



あいだと生命・臨床哲学論文集(木村 敏)序論に代えてー西田哲学と私の臨床哲学5,ヴァイツゼッカーの医学的人間学 より
ゲシュタルトクライシス』副題・「知覚と運動の一元論」ヴァイツゼッカー
生物が生きているということは、それが外界との「つながり/相即」を保っているということである。
例えば乗馬の場合、騎手は馬上での運動を通じて、馬からの力や外界からの力を制御して同一の運動形式というゲシュタルトを実現している。ダンスをしている一組の男女は、それぞれ相手の動きを知覚することによって相手および外界との相即を保持しながら、ダンスの形を実現している。主体の外界に対する働きかけが相互に循環し、円環状に関連しあうことによって、一定のゲシュタルトが形成される。これが「ゲシュタルトクライス」ということである。主体と外界は物理的には分離しているが、主体の行動としては一つである。ヴァイツゼッカーが「主体」と呼ぶものは、「自我と環境との対置あるいは出会いの根拠となる原理」のことで、通常は意識されず、「相即」が破断されるときに(これを彼は「危機/転機」と呼ぶ)はじめてその存在に気づくものである。

〰このヴァイツゼッカーの考え、とくにゲシュタルトクライスの考えは、同じく生命論を根底においた西田の「行為的自己」「行為的直観」の立場と非常に近い。
例えば西田は、《行為においては我々は行為によって外に物を見るのである。而して外に見られたものがまた我々を動かすのである。我々の行為を限定するのである。主観が客観を限定し、客観が主観を限定するのである。我々の行為は形成作用でなければならない。かかる形成作用というものは現実が現実自身を限定することから考えられる。我々の行為は常に知覚の即して考えられるのである。》と書いているが、これはそのままヴァイツゼッカーの文章として読むこともできる。事実、ヴァイツゼッカー自身、彼のゲシュタルトクライスの着想が、知覚や運動に関する神経生理学的な実験から得られたものなのか、わからないということを書いている。
 わが国の哲学界においては通常、西田哲学はハイデガー哲学との類比や対比によってろんじられることが多い。しかし、西欧においてもっとも西田に近い思索者を探すとなれば、それはハイデガーであるよりもむしろヴァイツゼッカーなのではないかという印象を、私は禁じえない。



 

 読み進めているとふと、サリヴァンの続きを読んでいる錯覚に陥ってしまったのは、どんな分野にも必要なのは、詰まる所は哲学というか、洞察力というか、物事を見る観察力という事でしょうか?

 しかし、あんまり深入りしてはいけない分野だとも思っていますので、サリヴァンを読み終えたら、中井久夫先生、水島広子先生の本を買ってもらおうと思って居ます。