またまた、「からだ」と「ことば」のレッスン(竹内敏晴著)からですが、全体の内容は、自分には難しすぎ、全て理解は出来ませんでしたが、部分部分はっとさせられる箇所があり、一番はっとさせられた箇所だけアップさせて頂きます。
いくらイヤでも、それを乗り越えないと、音楽もアートも支援も向上できないことはありますが、その辺の事は、竹内先生は勿論分かったうえでこれを書かれたと思われますが、自分を見つめなおす機会を与えてくれました。
むすびに代えて 『場』について より
〰ある年、参加して来た若い女性は、板の間の片隅に座ったまま、いつも暗い顔をしていた。
レッスンが始まると熱心にやるのだが、終わるとストンと一人だけになって、なにかイヤそうな表情になる。私はその落差が不思議だった。あんなにイヤなら来なければいいのに、と思うのだが、決して休まない。結局、半年間イヤな顔をしながら通い続けた。次の半年の期間には現れなかったので、私はやっぱり、と思っていた。ところが次の年の四月、彼女はまたやって来た。相変わらずイヤな顔して、しかし熱心にレッスンをする。どうも解せないので、私はある日レッスンの後で彼女を呼びとめて尋ねてみた。
彼女はかなりびっくりしたらしい。「私、そんなにイヤな顔をしてましたか?」と問い返したまんま、しばらく黙っていた。それからぽつぽつ話したのは次のようなことである。
彼女は、ある有名な私立の学園の中学と高校の国語の教師だった。と言っても前の年に大学を卒業したばかりで母校に勤務したのである。そこでは、ゼッタイにイヤな顔はできない、と彼女は言う。いつもキチンと礼儀正しく、長上にはにこやかに対応しなくてはならない。ところがここへ来ると、と言って彼女はニヤリと笑った。
どんなにイヤな顔をしてもだれもなんとも言わない。思う存分イヤナな顔をしてられるんです。自分じゃ気づかなかったけれど、よっぽど私勤めが重荷だったのかしら。
私はふうんと唸ってしまった。と同時に、ああそうか、私がここでやっていることは、来る人にとっては、こういう意味のことだったのかと、ひどく、思いかけず納得している自分があった。
同じころ私は、ルソーの晩年の著作『孤独な散歩者の夢想』を読んでいてぎょっとなった。
「わたしは、人間の自由というものはその欲するところを行うことにあるなどと考えたことは決してない」(今野一雄訳)
したいことをすること、それが自由ということじゃなかったのか、と私はひどく混乱した頭で考えた。それじゃいったい彼は、このフランス革命の思想の淵源といわれる、自由という思想の近代における家元みたいなこの人は、どう考えているのか。「それは、欲しないことは決して行わない事にある」
私はそれ以後、かなり長い間このとばにこだわり続けた。そしてようやく私が気づいたのは次のようなことであった。
〰うらうら考えていた私は、ある日はっと気づいた。自由とは奴隷のことばなのだ、と。たしかにルソーの言うとおりなのだろう。奴隷が、これだけは、人間として、したくない、と言い切ったならば、奴隷に待つものは死であるだろう。だが死を賭しても、イヤだ、と言い切る時、そこに「自由」がある。自由とは、その場の、その瞬間の、人間の尊厳のことであるのだ、と。私は、そのような意味で自由を意識していたであろうか?
自由を持っていない、という言い方を人はよくする。だが自由とは「持つ」ものではないのだ。選び取り行動するものなのだ。
では、障がいをお持ちの方々の自由とはどうなのか?
福祉職としては考えざる負えませんね!
約10年間入所施設で過ごされ、自立支援法が施行されると同時に、一人暮らしされた、水島さんは自ら事業所を立ち上げ(ご自分とご自分の居住部分が事業所だと言われていました)、アパートを借りました。現在は実家の敷地内に自宅を建てられて、重度訪問介護を利用しながら(ご自分で支援者を探されて、重度包括支援費と年金で雇われている感じでしょうか?)生活されていますので、まさしく『選び取り行動』されたという事ですね。
写真は昨日の物ですが、今日は下地が完成して、窓のサッシの枠が付いていました。本当に形が見えて来ました。
本体の食堂も半畳分広くなる工事や、吊戸棚を全て外す工事ももうすぐ始まります。