うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のすろーじゃむと、サリヴァン


 今日のすろーじゃむは、物作りの日でしたので、野郎の出番がなく(笑)
kさんの作品を少しまとめてみました。
こちらはランチュウの様ですね!

 こちらは、ゴジラがミニラをおんぶしている(笑)ゴジラの子守ってとこでしょうか?緑がゴジラで黄色がミニラで赤と白がおんぶ紐(笑)
 楽しい作品が出来ました!


 涼しくなってきたので、『氷』を外して『雪印バター』を張りました!まだしたは『キャラメル』がありますが、長すぎて収まらなかったので、バターまでにしています(笑)
 関係ないですが、今年は国産バターを増産したので、店頭になくなることはないと先日ニュースでやっていましたね。



 この勢いで少し遊んでみました!
夕方まで男性職員の出番がないので、畑仕事もさせて頂きましたが、蚊の餌食になってしまいました(笑)

 つる返しをしたり

 試験掘りをしたり、除草したりでしたが、芋はもう少し待った方が良いとの判断でした(最高齢の世話人さん談)ので、ひとつだけにしました。

 女性職員達は、支援と物作りを阿吽の呼吸で行っていましたので、息の合う職員同士の時は、いつも時間の流れがゆったりと感じます。


送迎が終わり、学齢児さんのバスを待つ間、サリヴァンを読ませて頂きました。

昨日と同じ章ですが、分裂病は人間的過程である 3,分裂症の始まり
より 

分裂病の前駆期と呼びならわしてきた時期には特別の注目に値する、特有の性質が少なくない。はっきりした精神病の発症の以前に長期間の“鬱状態”を経験する症例が少なくない。これらの人々の言動には不幸が色濃くにじみ出ているが、精神病としての鬱病とは区別されるべきである。心身の活動テンポは遅くならず、悲哀を誘発する少数の観念に没頭して現実的な考え方をすっかり排除してしまうこともない。大ざっぱに言えば、(鬱病者と異なり)自分の罪や過ちの結果何もかもを失ったという感じはせず、不可解な理由で万事がうまくゆかないという感じ方をする。この理由には本人の欠点あるいは力量不足、あるいは奇妙さと密接に関連させていることもないこともある。しばしば本人は自慰の結果だと言い張る。これもまた適応失調の状況で、おのれの力不足という現実に適応できていないわけだが、しばしば自身はそのことにまったく気づかない。真正の鬱病者なら破局、劫罰、絶望などの途方もない巨大さに思いを致して頭がいっぱいになっているが、初期分裂症の場合には思考内容は決してそんな単純なものではなく、押しつぶされるほどの苦悩を背負ってますます幻想的な説明や取り返しをつけようとする努力の中に立てこもってしまう。両者の相違点は根底的に力動的なものである。すなわち、純粋な鬱病は適応しようとする努力の停止であり、分裂病抑鬱はきわめて悲惨な苦闘である。文字通りでも比喩的な意味でも、分裂病抑鬱者は落ち着いて座ってなどいない。身をさいなむ刺激から身を切り離そうとし、結局神秘的な異常な努力をして現状から逃れようとし、思い切った手段で自己を正当化しようとあがく。純粋な鬱病ならふつうの手段による自殺に終わるところを、分裂病抑鬱病では、しばしば、自分が殺されるという恐怖がまずあって、その結果思いもよらないような自己破滅法に訴えるものである。



 今日の箇所はそうでもないかもしれませんが、サリヴァンが活躍していたのは1900年代の前半です。それにもかかわらず時代を感じさせないのは凄いなと純粋に思います。