『サリヴァンの精神科セミナー』から『精神医学の面接』へと蓮の花
今、『サリヴァンの精神科セミナー』を読み終えましたので『精神医学の面接』に移ります。
400頁近くある本なので、沢山学ばせて頂きましたが、一番に印象に残ったのは
患者の報告を聞いてサリヴァンが切る口火は、「もしこの人が病人でなければどんな人格だったろうね」という意味の問いであった。これが彼の基本的姿勢である。かねてよりの「人間は違いよりも同じほうがまさっている」というサリヴァンのいう「人類同一仮説」のもっとも端的な表現である。
すなわち、治療者の視野の中央には病気あるいは症状でなく患者の人柄と生活が無ければいけない。当時アメリカでもどこでも、ケース検討は「診断は何か」の問いで始まるのが普通であり、今もそうであろう。しかし、診断は何よりもまず「治療のために奉仕する仮説」である。実際サリヴァンは、このセミナーの患者には断定的な診断を下していない。まだ早すぎると言っている個所もあり、鬱病や外傷神経症を含む他の疾患の可能性を問うている個所もある。
この時代の米国における「統合失調症」の範囲が広かったのは事実であるが、逆に、狭くとって統合失調症を神経症と誤診する害もあるはずである。何事も無条件に善ではない。
〰また患者であろうとなかろうと、自尊心をなくしてしまった人間ほど悲惨で始末ににおえないものはない。これに対してまず人柄を問うサリヴァンの方法はモラル・トリートメントの伝統に立つものである。私見によれば、患者の自己評価と自己尊厳を第一とすることこそ、デューク以来のモラル・トリートメントの真髄らである。(『サリヴァンの精神科セミナー』より)
でした。
訳者の中井久夫先生も、解題とあとがきに取り上げておられる一節でもあります。
当たり前のことが、当たり前の様に出来ない時代にどうしてなったのでしょうか?
製薬会社のせい? それとも保険会社のせい? 人間がどんどん鈍感になって行かないかと心配になるのは、年を取ったせい?でしょうか(笑)
reassurance・安心再保証(中井久夫先生訳)という、サリヴァンの重要概念のひとつも、本当はサリヴァンが力説するまでもなく、本当の意味での文明人と皆さんが思って居るなら、持っているのが当たり前のような気もしています。
豊橋に用事で出たついでに、産直に入ったら蓮の花が180円で2輪売られていましたので、迷わず購入させて頂きましたが、葉がないなと呟いていたら、向いで見ておられたおばさまも「そうだよね!どうやって活けるのかしら?」と仰っていました。
自分は地元で蓮がある場所を知っていたので、花だけ購入した帰りに一枚葉を頂いてきました(笑)
短い方を1cm位短く切り過ぎました!
水切りしても、一時間くらい経ったら葉が萎れてきたので、並んでいなかった訳が分かりました......。
今日も暑かったので、活けている(挿しているだけ?)刹那だけ涼を頂きました。
活けた後は、いただき物の塩羊羹でお薄を点てました。
早、月末! 事務仕事がピークに達します!
自宅でも事務仕事が増えたので、もう一台購入しようと、いつもお世話になっている方にお願いしたら、明日から『ウインドウズ10』が発売されるとの事なので、暫く様子を見た方が、入れるソフトの確定がしやすいと言われていました。
彼がGOサインを出してくれるまで、暫く待ちます。