うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

工事と、大家さんのねこさんと、【最良の臨床家は、人として患者とそこに「在る」ことのできる人です。】

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  今日は、名古屋に行く予定がなくなり、調子の悪い利用者さんがおられたので、少し現場に入らせて頂きました。ちょうど屋根裏に銅板を張る工事の前に、ポリカーボネオトを外していました。今月末から工事が始まります。

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 帰宅したら、大家さんのねこさんが、今は亡きねこさんのような寝方で寝ていました(笑)。寒くないのでしょうか?随分肌寒くなりましたね。

 

 現場に行ったり帰宅したりしていたので、外出もままならず、本を読んだり、ギターを弾いたりで、事務仕事もありますが、休みは休むことにしています。

 下記は、今日読み終えました。現在、自分が現場で思っている事と一致しているので、オグデンから離れて、少しだけ医療人類学の方に入ります。東畑先生から、皆藤先生に行き、皆藤先生からクラインマン先生に行きつきました。それは、中井久夫先生からサリヴァンウィニコット、北山先生、クライン、タスティン、アルバレズ、リトルに行きついた様に、また違う角度で自分の中で派生して行っています。

 24歳で独立して、最初は仕事が無くて、仕事取ろうと必死で働いて、身体を壊してしまったこともありました。救急車で運ばれ、気が付いたら病院のベッドにいて、ニトログリセリン!って叫んでいてのを思い出しました。中々体調が戻らずに、その病院の先生が京都大学出身だったので、京大病院を薦められ、通院を始めましたが、学生に診察の様子を見せる代わりに医療費はただにするとのことで快諾し(笑)、いざ診察になると、その教授らしき先生は体に指一本触れることなく、カルテをさらさらと書いて、ハイ次はいついつね!って。体調の悪さも手伝って、先生は凄いですね!患者に指一本も触れないで、きちんとした事も聴かないで診断できるんですね!って、嫌味を大声で言っていた自分がいました。まるで、クラインマン先生の本の内容の様だったなと、今この本を読ませて頂いて昨日のことのように思い出しました。喘息も酷くなっていたので、受診待ちに過呼吸で倒れたこともありました。今から思えば、自律神経失調症だと思われますが、運ばれた時には虚血性心不全といわれて、体力には自信がありましたが人間ってこんな簡単に崩れるのか?と思ったことも、思い出しました。

 モラルトリートメントでは、精神に不調をきたした方々は、暫くすると治って普通の生活に戻ったと書いてあり、それが段々専門性を(医師など)持った人間が携わるようになると、治癒が難しくなってきたと、何かに書いてありました。ブログを遡ればどこかにかいてあります。

 現場でも、限界はありますが、誠意を持って支援をさせて頂いていたら(自分を出すのではなく相手のことをまず考える)、きちんとした支援になります。当たり前のことが、当たり前にできない程、大変な仕事をしているのでしょうか?人間として認め合うだけでほぼ支援は成り立つと思われますが.......。

 本は、同じくクラインマンの、病いの語りに入りました。

 

ケアをすることの意味

病む人とともに在ることの心理学と医療人類学

皆藤章[編・監訳]

アーサー・クラインマン/江口重幸/皆藤章[著]

第2部

第3章 病と人間的体験

ケアをすることと現前性

 こころここに在らずといった機械的なケアとは、人に注意を払わないものです。患者が医者に交渉しようとおもっても、医者のこころここに在らずで、その患者が何か言う前に医者は処方箋を書いてしまい、患者に説明したり語ろうともしたりしない。

 こういう状態を医者がそこに存在しない、つまり不在であると言います。

 では、「現前性」とはどういう状態ことを言うのでしょうか。

 それは、機械的にそこにいるのではなく、人としてそこにいるという在りようを言うのです。こころを込め、全身全霊でそこに参与することです。それが現前性です。

  最良の臨床家は、人として患者とそこに「在る」ことのできる人です。患者とともに在り、特別な存在であることを患者に感じてもらうことができる人を言うのです。

  最良の臨床家は、患者に、良くなってもらいたいと願いながらそこにともに在るということができる人です。このことは、ケアをすることにおいて、途方もなく重要なことだと言えます。