ミソハギと茶の本より
昨日、ショート利用の方の送迎帰りミソハギが安く売っていたので仏壇用に購入し残りを花瓶に入れました。
もうお盆ですね!まだまだ猛暑は続きそうですが........。
読みたい本が無い時はお茶の本ばかり読んでいますが、福祉職に当てはまる事ばかりの様な気が沢山して来ましたので、しつこくアップさせて頂きました。
道教の美学(茶の本 岡倉天心著 立木智子訳)
現世をありのままに受け入れ、日々の中に美を見出そうとする
しかしながら、道教がアジアの人々の生活に最も貢献したのは、主に美学の分野においてでした。
中国の歴史家は、道教とは我々がこの世で生きていく「生き方」を説くものだとしました。
というのは、道教は「現在」そして「今」、つまり“我々自身”を扱うからです。
神と自然が融合するのは、我々自身の内に融合するのであり、また、昨日が明日へと移り変わるのも、我々自身の内に移り変わるからです。ですから「現在」は絶えず移りゆく無限であり、れっきとした相対性なものです。
相対性であるということは、適応を求められますし、適応とは「生きる技」であり、「芸術」なのです。
このように「生きる技」とは、我々をとりまく環境に対し、常に適応していくことをいうのです。
ですから、道教は現世をありのままに受け入れ、わずらわしい毎日の中で美を見つけようとするものだといえるでしょう。この点が儒教や仏教と異なるのです。
宋の寓話に登場する「三酸図」は実に見事に儒教、仏教、道教の特徴を物語っております。
あるとき、釈迦、孔子、老子の三人が、酢の入った壺(これは人生の象徴でもありますが)をまえにして、それぞおれ指を酢に浸してなめてみました。
実利的な孔子はそれを酸っぱいと言い、釈迦は苦いと言い、老子は甘いと言ったというのです。
「人生という喜劇において、役者全体が和を保とうとすれば、よりおもしろくなる」と道教徒は言います。物と物との釣り合いを保ち、自分の立場を失うことなく他人に譲ることが日常劇を成功させる秘訣です。我々が自分の役をちゃんと演じようとすれば、劇全体について把握しておかなければなりません。
つまり、個人という概念において全体という概念を決して見失ってはならないのです。
老子は、この概念を「虚」の比喩を使ってうまく表しています。彼はただ「虚」にのみ真に肝要なものが存在すると主張しました。
たとえば、建物の現実は四方の壁と屋根からなるのではなく、その中に住む空間からなるのです。
水差しが役に立つのは、水を入れる空間があるからであり、水差しの形や素材は問題になりません。
「空」はすべて含むから万能であります。「空」の中では、動くことが可能であり、自分を「空」の状態にして、他人が自由に入れるようにできる者は、あらゆる情況を制覇できるでしょう。
「全体」は常に「部分」を支配できるのです。(茶の本・The Book Of Teaより)
自分は現場に入ると、まずこの文章をまず頭に浮かべてから、実務に入るよう心掛けています。
制覇・支配は言葉の綾ですが、制覇=オペラント化?・汎化?等 支配=支援と考えています。
当たり前のことが、当たり前に出来るのがプロなのでしょうが、現実はそんなに甘くはありませんので、毎日、気を引き締め頑張りたいと思っています。