うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

古い機材と、誰だったんだろう?と、【人々は徳深い人間になれるように教育されるのではなく、適切にふるまうよう教えられるのです。】


 夜勤明け、少し送迎の手伝いをしてから、本を読もうと、うたたね横のファミマで本を開いたら、一緒にコーヒーを淹れていた紳士が何の本を読んでいるのか?と尋ねてきました。メラニー・クラインはご存じではなかったのですが、発達障害アスペルガー等の言葉が直ぐに出て来ていたので、その筋の(笑)方かと思いダイレクトに聞いてみましたが、違いました。知り合いがそのような治療を受けているが、薬にも馴染めず苦しんでいるとのことでした。
 何故か?本の内容まで深く突っ込んでこられたので(笑)転移ー逆転移の話をさせて頂きました。強い投影を受けると、こちらも疲れるので、まともに受けないようにしながら、それをその方が分かり易いように返すのが、自分の仕事だと話したような、話さなかったような(笑)半分寝ぼけていたので、夢の話だったのでしょうか?(笑)
 宗教家ではないとのことでしたが、ファミマのイートインで、そんな話が出来るとは想像していなかったので、神様が、あいつは本当に勉強しているのか?試して来いと言われた聖人さんだったのかな?と思っても見ました(笑)

 選挙の話も少ししたような、しなかったような(笑)本当にまだ寝ぼけています(笑)投票日が近づいてきましたが、本当にどこに、誰に入れたら良いのか分からないので、初めてボートマッチをしてみたら、一番近いのが、日本維新の会で、次が自民党でした。


 関係ない話が続きましたが、その紳士と話していたら、ふと茶の本の下記の部分を思い出したのでアップしました。

 精神分析的であったり、政治的であったり、宗教的であったりした会話だったので、思い出したのでしょうか?
 個人的にはタイムリーでした。


 メルツァーの章は読み終えましたが、今日は茶の本からです。
そういえば、下記の老子の言葉を、安倍総理が所信表明で言ったと(安倍総理の言葉として紹介していました)言っていました。全国紙の記者さんが.......と思ってしまったこともまた、思い出しました(笑)


 明日は、自分が担当させて頂いている方の誕生会があり、親分提案のさわやかに行きますが、12人の大人数で、果たして席が取れるでしょうか?そういう親分は夜勤明けで行きませんが.......。
 近くのガストでもよかったのでは?と思ってしまいます......。

 写真から大分離れてしまいましたが、11月5日のバンドは、バンマスの大森君が来れないので、ドラムマシンを購入しようかと思って色々調べましたが、良い物は高価なので、諦めて古い自分のMTRのドラムユニットを古いキーボードアンプ(しかもベリンガー!)で鳴らすことにしました。味気がないですが、何とかやってみます(笑)




第三章 道教と禅

 道教の特徴
――個人主義的で自由闊達、柔軟な思想を道教は持っている――
老子は「道」について次のように言っております。 「すべてを内包し、天地が存在する前に生まれたものがある。何という静けさ、何という孤独さ。それは一人立ちし、変化しない。それは宇宙の母であり、危険にさらされることなく、巡ってくる。私はその名前を知らないので、『道』と呼ぼう。敢えて、他の言葉を借りて『無限』とも呼ぼう。無限は無常であり、無常は消滅であり、消滅は回帰である。」 道とは「道」というよりも「推移」する過程を表します。それは、宇宙変転の精神、つまり、新しい形を生み出すために、常に己に回帰する永遠の成長を表します。道教徒が好む象徴、龍のように身を翻し、雲のようにまた、消え去っていくのです。しかるに「道」はおおいなる推移ともいえます。主観的にいえば、宇宙のムードであり、その絶対性は常に相対的であるのです。 道教についてまず忘れてならないことは、道教は、道教の正当な継承者の禅と同様に、中国の南方の個人主義的な傾向を汲んでいることです。それは、儒教によって代表される中国北方のコミュニズムとは、まったく対照的です。〜
〜先にもいいましたように、道教でいう絶対性とは相対的であることを意味します。ですから倫理の面では道教徒は社会の掟や道徳に批判的です。というのも善悪とは相対的なものにすぎないからです。定義することは、そのものを限定することです。ですから「一定」とか「不変」とは成長が停止した状態を表わす表現にしかすぎないのです。
 屈原いわく「聖人、世と共に推移する。」我々の道徳規範は過去の社会的必要から生まれたものです。が、社会は常に同じ状態にあるでしょうか。社会の伝統を遵守するには、個人が国家に常に犠牲を払わなくてはなりませんし、教育はそのような妄想を抱き続けるために、一種の無知を奨励するのです。 人々は徳深い人間になれるように教育されるのではなく、適切にふるまうよう教えられるのです。我々はあまりにも自意識過剰で罪深い人間であります。自分自身が悪いと知っているので、他人を許すことはありませんし、他人に真実を伝えるのを恐れて、良心を養おうとし、自分自身にも真実を語るのを恐れ、プライドを持つことによってその恐ろしさから逃れようとします。 この世自体が、このように馬鹿げているのにどうして我々だけが真面目に生きねばならないのでしょう。他人に良くするのは、その代わりに他人から良くしてもらおうという計算があるからです。 名誉だの、貞操だのといって真実と善を売りものにしている欺瞞に満ちたセールスマンを見てごらんなさい。いわゆる宗教というものさえ、お金で買えるのですよ。なぜなら、宗教とはお花と音楽で神聖化した単なる一般常識にしかすぎないからです。もし境界からこれらの飾り物を奪い去ったら、いったい何が残るでしょうか。しかし、信仰は驚くほどに盛んです。なぜなら、値段がとてつもなく安いからです。お祈り一つで天国行きの切符と、名誉市民の表彰状がもらえるからです。 さっさと自分の身を隠しなさい。もし、あなたがどんなに役立つか人に知られたら、たちまち競売にかけられ、最高入札者の手に渡ってしまいますよ。どうして男も女も、そんなに自己宣伝をしたがるのでしょうか。これは奴隷制のあった時代から受け継がれてきた本能ではないでしょうか。〜