今日は遅番でした!アクリル額のビスがないと連絡を受けて、探していたら、色んなものが出てきました!かわいい物だけ並べてみました!
夕食後は皆さん自らお手伝いされていました!成長ぶりには毎日びっくりします。
用事が終わったら、皆さん遊びも自ら考えて出来るようになっているので、こちらもびっくりします。りょうちゃんは、あんたがたどこさと、ずいずいずっころばしのリクエストが多く、自分の十八番になりました!
よっちゃんのところから、スイカの差し入れがあったようです!見るからに美味しそうでした!
下記は、もっと早く実現しても良かったのかも知れませんが、その渦中にある時は余裕がありませんしね........。まだまだ終息したわけではないので、気を抜けませんが!
下記は、宇沢先生の本を読みたくなりました。今取り上げられるのは意味があることですね!
先程、ニュースを見たら下記が.......。皆さんコロナ慣れ?してしまっていませんか?
今日も『日本文化のかくれた形』の加藤先生からです。古典を読んでいる感じもしないでもありませんが、日本の民主主義の土台(自分には民主主義が分かりませんが.....。)が書かれている感じがしました。義理・人情・誠と、どれも無視してはこの世は無事に生きていけませんね.......。
~「人情」は、外在的規範から自由な、私的感情であり、しかもそれが町人文化の中で価値として認められていたものです。
「義理」と「人情」、この二つの価値がぶつかり合えば、どうなるか。実際の社会では「義理」の強制力が優越します。相愛の男女は、「義理」のために、死ななければならない(negative sanction)。それが心中です。
しかし、町人が作った劇場の中では、逆転して、人情の方が勝つ。そうでなければ道行きが成りたたず、浄瑠璃が成り立たない。「未来成仏疑ひなき恋の手本になりにけり」。死ぬことが、かえって、全く主観的な感情、すなわち恋を「手本」として、価値として、確定することになります(positive sanction)。
なぜこういう価値の分極化現象が起こったか。なぜ町人社会で、「義理」の秩序が内面化されず、「人情」の価値が外在化されないで、「人情」の讃美が、劇場の内部にとどまったか。それは「義理」の秩序が武士支配層から出て来て、上から下へ、町人層に押しつけられたからでしょう。
「人情」の価値の主張は、町人層の内部から、押しつけられた秩序に対する反発として出て来た。だから「人情」は、事実としてではなく、基本的な価値としては、武士層の中にはない。原則として、儒者の中にもありません。
町人出の儒者、石田梅厳でさえもーー彼は儒教を大衆化した人ですがーー、「人情」ではなくて、「誠」について語ったのです。「誠」は「恋の手本」とは違います。武士層では、儒教的社会秩序、「義理」の価値が、少なくともある程度まで、内面化されていました。〜