うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

入浴リフトのリモコンと、ねこさん・いぬさんの日向ぼっこと、【環境の失敗は、まさにここで被害妄想の可能性へと個体を歩み出させる。】


 入浴リフトのリモコンの調子が悪く、どうしても直らないので、メーカーさんに問い合わせたら、新品は48,000円!とのことでした。
来ていただいて設定すると、余分に25,000円........。設定方法を聞いたので自分がやります。




 今日は、少し暖かいのでしょうか?ねこさんも、いぬさんも気持ちよさそうに、日当たりの良い場所で、日向ぼっこしていました。
自分は、移動が歩きか、自転車なので、風が当たると寒いので、オーバーが手放せません(笑)


 今日は夜勤なので、午前中はジムに行って、股割をきちんとして、ストレッチ・筋トレと2月23日にして、2月3回目で(笑)やっと去年並みのメニューをこなせました。
緊急の受け入れなどで、1月と2月の前半は中々行けなかったので、身体が動かなくなっていました。体に関しては、十分な睡眠と、適度な運動がないと良いパフォーマンスが発揮できません。ギターは、右の親指があかぎれでぱかっと開いてしまったので、痛くて指で弾けませんでした......。


 本は、ジムが開くまでの時間、近くのファミマで読みました。
よくよく読んでみると、当たり前のことなのかも知れませんが、普通に普通の人が言っても誰も聞く耳は無いでしょうね(笑)彼がアカデミックに言うので、みんな耳を傾けるのでしょうね....。
 普通の母親が、普通に行っていること。それが一番大事なことですね。


 今日も夜勤なので、早めのアップです。
自転車を現場に置いてきたので、歩いて通勤します(笑)




母親が高度に専門化された機能に対して生物学的に方向づけられているという初期においてでさえも、ニードに対する適応は決して完全ではない、という主張も確かにうなずける。完全な適応と不完全なそれとのギャップは、個体の知的過程により処理されるのである。それにより、環境の側の失敗は徐々に許容されたり、理解されたり、容認されたり、あるいは予知されたりさえするようになる。知的理解が、ほど良いとは言えない環境の適応をほど良い適応へと変えるのである。このメカニズムの作動に当たって、環境こ安定した振舞いをするならば、当然のことながら個体ははるかに好都合な条件に置かれていることになる。安定しない適応は、当てにならないがゆえに外傷的であり、きわめて感受性豊かな一連の適応を時折見せていたとしても、その良い効果を帳消しにしてしまう。 (貧弱に与えられた脳組織に基礎を置くために)知的な能力が制限されている場合は、あまりほど良いとは言えない環境側の適応をほど良い適応へと変える幼児の能力が低下し、結果として、欠陥を持った人には正常な人たちに比べて、特定の精神病がより多く発症する。並外れた脳組織を与えられた子どもは、ニードへの対応の重篤な失敗を容認できるかもしれないが、そのような場合では心的活動の身売りが行われることがあり、臨床的には分裂病的破綻の可能性に結びつく知的過程の肥大が見出だされるのである。 私はここに述べたことが、知的活動とか、欠陥のある人の精神病とかの起源について語りうるすべてである、と主張しているわけではない。しかし、心的活動の問題についてのこのような見方は、心的活動がどのようにして搾取されて精神の敵となってしまうことがあるのかを示す意味で、有用なのである。〜



〜普通の健康な発達においては、母親の愛情に満ちた世話が現実に存在することにより中和されていくが、そのような世話は身体的に(抱っこすることの場合のように)、あるいは心理的に(感受性豊かな適応を可能にする理解や共感のように)、個体の原初的孤立primary isolationを事実とする。環境の失敗は、まさにここで被害妄想の可能性へと個体を歩み出させる。これは臨床的にはあまりに早期に、そしてあまりにもあからさまに見られるために、人は(幼児の心理学を知らないので)それを遺伝によって説明する者に耳を貸したりしてしまうのである。 人生におけるきわめて早期の妄想的状態の恐ろしい不安に対して防衛する中で、種々の名称(防衛的病的内向化など)で呼ばれてきた状態が組織されることはまれではない。幼児は永久に自分自身の内なる世界に住むことになるが、それはしかし堅固に組織化されていない。単一状態unit−statusを達成しないことにより簡単外界からの迫害に巻き込まれることを防波堤で食い止めているのである。このような子どもとの関わり合いに際して、人は子どもの住む内なる世界に漂い込んだり漂い出たりする。そしてその中に身を置くときは、人は多かれ少なかれ万能的の支配の下に置かれるが、その支配は強力な中心点から発しているのではない。そこは魔術の世界であり、その中にいると人は気が狂ってしまったと感じる。このような精神病的な子どもを治療したことのある者は皆、この世界に住むためにはいかに狂っていなければならないかを知っているが、それでもわれわれはそこに身を置き、何らかの治療を行うために長い期間、そこに留まらなくてはならないのである。







結語
 この章で論じられた主題は、乳幼児の世話と、通常の成人の精神医学との共通の基盤である。先に話を進めるならば、抑うつポジションや思いやりの感覚の起源、罪を意識する能力の起源、そして個体の中に緊張とストレスに満ちた内なる世界を築き上げることなどにも、私は目を向ける必要があるだろうと思う。これらのいずれにも、ここでは触れることができない。 私は、乳幼児の世話の理論についての研究が、精神的健康や精神障害の理論(臨床論文集1第12章)へとわれわれを導く、ということを示そうとしてきた。 精神的健康は、母親が妊娠して以来乳児に与える普通の世話を通して、母親によってその基礎が置かれているが、その世話とは、彼女がその仕事に特別に方向づけられているからこそ与えられる。精神病の性質を帯びた精神的な不健康は、環境−個体の組み合わせの成長の早期段階における遅延や歪曲、退行や混乱から生ずるのである。精神的な不健康は、それが両親、看護婦、学校の教師のいずれによって与えられようと、人間性humannatureに内在し子どもの世話という仕事を特色づけるような普通の困難から、ほとんどそれとは知られずに現れる。それゆえに、精神病に対する予防は自分たちの責任であるということを、小児科医は知っておくべきなのである。