うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

永山則夫・元死刑囚の遺品初公開のニュースを見て


(写真は共同通信社様の物です)
 永山則夫・元死刑囚の遺品初公開 601点、支援者らにのニュースを見させて頂き、色々考えさせられました。

 改めて、永山則夫氏の事をネットで沢山調べさせて頂いていたら、彼の著作「新論理学」の導入部「人が言葉を学ぶのは、不自由から自由へと移るためである」を見て、《新約聖書ヨハネによる福音書」第1章から》創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。(ロゴスには色んな解釈がありますが....。無視します)を真っ先に思い出しました。

 森羅万象には、全て意味がある様に、人間として生まれてしまったら全て意味のある中で生きて行かないといけなくなるのでしょうか?
 
 藤木正三先生は、聖書の解釈は、読む人が其々の解釈をすれば良いと仰って下さいましたが、神の存在を疑いたくなるほど、其々の人生の差には平等感があまりにも無さ過ぎます。
 元々、人間は平等には生まれて来ない、と小羊学園の稲松さんの言葉も思い出しました。
 そのギャップを埋めてあげる事が、自分達の仕事だと言っている様にも感じました。

 永山基準という言葉(考え)が出来たほど、司法ならず、世間も注目した事件を風化させまいと、今回、遺品公開に踏み切ったのでしょうか?

何故か?ドクサという言葉も脳裏を横切りました。
この言葉も色々な解釈がなされていますが、エピステーメーの反義語になるのでしょうか?
福祉の現場にいると、エピステーメーがフォーマルな情報、ドクサがインフォーマルな情報な感じがしています。
 哲学や思想は、風土こそ違え、ギリシャも中国の道教禅宗も根本は同じ様に感じます。
  エピステーメーもまた、時を経て一般化され、広く人々に理解されたならば、ドクサとして否定的に捉えられるので、老荘思想の様に、流れに沿って頭の中も柔軟に対応していけるようにして行かないと、いけないなと最後に思いました。

 まとまりが無くなりましたが、これも、現在の自分の頭の中の状態かもしれません。