土日のうたたねと、【「願望充足」という言葉を、機能面でのみ捉えて一人歩きさせてはならない。】
段々アップが遅れてしまっています。毎日の読書とギターは継続中ですが、仕事とそちらが優先になるので、ついつい先延ばしになってます。土日は男子だけすろーの湯に!
身体の方もおられ、ベッドも使いました。
まりちゃんがケーキを買って来ましたが、おたんじょうびおめでとう!って(笑)。誕生日が1番近いりえさんに持ってもらいました!
今日も空がきれいでした!
人は自分が経験したことがあることしか理解出来にくいし(それはハリー・スタック・サリヴァンも言ってましたね)、理解出来るまでに時間がかかります。下記もフロイトが自分自身の夢を下地に、患者さんの夢を見ていくことが可能になったのだと思われます。下記とは全く関係ないのですが、ビオンの今ここで起こっていることだけを見て(過去のことは全て頭から追いやって)見なければいけないというのを、最近現場の職員と話す機会が増えました。バイアスをかけないで利用者さんを見るというのを、ついつい忘れガチになるからでしょうか?
身体に障がいをお持ちの方よりも、知的に障がいをお持ちの方の支援の方が難しいと、サラリと言ってしまう残念な方がいますが、どちらとも、本当の支援が出来るというのは非常に難しいことですね。どちらの方がと言われる方はおそらくどちらかしか見られていないんだと、身体に障がいをお持ちの方も支援させて頂いている身には、本当にそう思います。脱線しました!
精神分析という知の体系
「精神分析」という知の体系の成立には、語るという行為にひそむ脈絡への思惑が二重、三重に絡んでいる。
「精神分析」という用語をフロイトが初めて遣ったのは一八九六年であった。しかし、精神分析という知の体系が誕生する様子は、それより少し前、一八九五年七月ニ十四日の出来事をめぐって語られることになる。後になって、フロイトはこの夜のことを振り返りフリースに向かってこう述べている。
「いつの日か、この家に大理石の碑が取りつけられるんだ。信じられるかい?そこにはこう記される。『一八九五年七月ニ十四日この地において、夢の秘密はS・フロイト博士に判明する』」。
言うまでもなくここで言う夢とは「夢判断」第ニ章に収められている「イルマの夢」である。その夢はフロイト自身が見た夢で、自分で「精密に解釈を試みた一番最初の方」(「夢判断」第ニ巻、p.29)である。
ニ十数頁にわたる「イルマの夢」のテクストの結末でフロイトが示した結論はあまりにも有名である。「夢判断を終わってからみると、夢というものがひとつの願望充足であることがわかるのである」(フロイト、同、pp.158-159)。フロイトの言葉を文字通りにとって、どの夢はどんな欲求の表象であるとシンボル探しをした時代は終わっている。
「願望充足」という言葉を、機能面でのみ捉えて一人歩きさせてはならない。ここでは、とりあえず、夢を見たという自分の行為に対して、フロイトが一つの脈絡を見出したということのみ注目しておきたい。~