今日のうたたねと、真島昌利 / さよならビリー・ザ・キッドと、【ノーマルな状態の人間にも〈画像〉は訪れる。睡眠中に意識の一部に現れるその〈画像〉は、普通〈夢〉と呼ばれている。フロイトはその夢を解釈することによって無意識に迫ろうとした。】
今日は日中おられる男子だけすろーの湯に行きました。暖かかったので良かったです!
イチゴは春には沢山出来そうです!二年ぶりですね!やっと回復しました。
12月というのにカマキリさんが元気でした。
昨日はペインクリニックに行きましたが、何度か行っていたのに、後ろにベトナム料理屋さんがあるなんて気が付きませんでした。今度受診後時間が許せば行きたいですね。
作品作りが停滞している中、マスクにやってみました(笑)。何かを作りたいのでしょうなね!
バザーで色紙額が売れたので、まだ加工途中の物を引っ張り出してきました。仕上げて間に合えば持って行かせていただきます。
アップがめちゃくちゃ遅れていて、なんで下記をアップしたのか?忘れてしまっていますが、好きな曲です。山崎まさよしはやっぱり凄いですね!
この本も中々内容が濃くて、集中して読み進めています。もうすぐ終わります。
反復強迫としてのトラウマ ノーマルな状態の人間にも〈画像〉は訪れる。睡眠中に意識の一部に現れるその〈画像〉は、普通〈夢〉と呼ばれている。フロイトはその夢を解釈することによって無意識に迫ろうとした。
「イルマの夢」は、フロイトが夢解釈を試みた最初から夢である。精密な自己分析の結果、彼は「夢というものは、ある一定の状況を、私が願わしく思うように表現するもので、夢の内容はある願望充足であり、夢の動機はある願望である」(「夢判断」第ニ巻、p.102)と結論を述べている。 これに対して、トラウマ的出来事の〈画像〉には、夢のもつ願望実現の機能はなく、また解釈を呼び込む象徴性もない。フロイトも災害神経症者の夢については、これを「夢は願望充足であるという命題」にとっての例外と認めている。
そして、それを別のカテゴリーとして扱い、「快楽原則が支配し始めるまえに解釈されねばならない別の問題」として扱ったのである。その課題とは、彼が「反復強迫」と呼ぶものである。
「忘却されたものや、抑圧されたものを呼び起こそうとする願望に支えられた」この精神活動には、いまだ未知の部分が多いと彼は言っている(「快楽原則の彼岸」第六巻、p.169)。〜