もう少し直しましたが、ノートパソコンで取り敢えず簡単なものを作って提出しておきました(笑)。ちょっと単純すぎたり大きさのバランスが悪いので少し直したのもを貼り付けたら良かったですね......。写真は全て自分が写したものです。
パソコンは直していただけましたし、ついでにクリッピングマスクも指導していただけましたが、直ぐに忘れて仕舞うので、まめに使わないといけませんね.......。
入浴介助時や、運動時はちょっときついですが、一人ではないのでマスクは外していませんが、マスクによってフィットするものしないものがありますね。自分は例年花粉症対策で、年の半分以上マスク生活でしたので、大丈夫ですが、そうでなかった方には大変ですね。
さすが芸術の国ですね。ついでに展示も見ることが出来たら、免疫力が高まりそうですね。
ダーガーの作品には自分も圧倒されました。でも、下記のようにまでは考えることは出来ませんでした。ただただ圧倒されました。
〜ヘンリー・ダーガーの作品があれだけ私たちの感情を揺さぶり、世界中を驚嘆させたのは、両性具有や児童虐待というそのモチーフだけでなく、それが死の直前に発見されるまで誰の目にも触れなかったという事実である。
それはあやうく永遠に世界から失われれるとこらだったのだ。信じられない偶然がいくつも重なってしてそれはこの世界に残された。〜
〜だがやはり、ここでもまた、もっと胸を打つのは、ダーガーがそもそも「いなかったかもしれない」ということである。
「見出されたダーガーの世界」では、ダーガー本人は自分の営みが報われたことを知らないが、私たちは知っている。
「見出されなかったダーガーの世界」では、見出されたダーガーは存在しないが、そうした報われない存在が「いた」ということは、私たちは想像することはできる。
だが、「ダーガーがいなかった世界」では、ダーガーがいたかどうか、彼のやってきたことが報われたかどうかを、「私たちですら知らない」。
知られない、ということが、ロマンチックな語りやノスタルジックな語りの本質であるとするなら、もっともロマンチックでノスタルジックなのは、ヴィヴィアン・ガールズを制作した本人が見出されなかっただけでなく、彼が見出されなかったこと私たちすら知らない、という物語である(見出されたことを知らない、のではなく、彼が見出されなかったことを知らない、ということ)。〜