今日も男子は、すろーじゃむの湯に行きました!
すろーじゃむワイナリーのブドウは、大分皮が透き通ってきました!
イチゴも、まめに行って水をやれるので、新しい株が元気に育っています!
夕食後は、ソーシャルディスタンスで踊っておられました!
遅番での帰宅は20時過ぎですが、気温が33℃......。この時間でもこの気温です......。
熱中症にならないように、水分補給とエアコンは欠かせないですが、今年はそれに換気も伴いますので大変ですね。窓は常時開けています。
本当に国連は動きませんね........。
今朝もルーチンをしに(笑)、早朝のファミマの駐車場で、車の中にて本を読みました。
大学院の同い年の方が、最終レポートを送ってきてくれたので、こちらも同じレポートを添付させて頂きました。彼は大企業なので、教科書通りの文言が当てはまりますが、自分は零細なので、合うように操作(笑)して速攻提出しました。
秋学期のことのメールが大学院から来たり、同業者の相談に乗ったりしていたらあっという間にこんな時間......。会議のレジメもお前がまとめろ!との、理事長の鶴の一声で(笑)決まり、明日は休みですが、纏め買いも仰せつかり(笑)、明日行ってきます。
この章は、野中先生が書かれている章ですが、SECIシステムを理解するには、現象学や哲学・精神分析などの学習も欠くことが出来ないとは思いませんでした。一部の講義の教科書の発表もあり、また本を購入します。夏休み中に読めるでしょうか?
下記でいう、共感は、正しく精神分析などの心理学でも使う内容ですね。だから、入学できたのかな?と、ふと思いました。この6年間、精神分析の本を沢山読んでいなかったら、学べていなかったのかも知れませんね。やはり、継続は力なりです!
第9章 相互主観をどう育むか
ーー経営に不可欠な「出会い」の本質
知識は知識に「成る」
我々が知識を「個人の全人的な信念/思いを『真・善・美』に向かって社会的に正当化していくダイナミックなプロセス」と定義していることは第8章で紹介しました。つまり知識とは、人が他者との相互作用を通じて、何が「真・善・美」であるかを探求し続けるプロセスであり、そうしたしゅ(信念)と客観(正当化)の相互作用にこそ、知識のダイミックスがあると考えています。
知識は、人の主観と切り離された客観的で絶対的な真実として「存在する」のではなく、主観的で相対的な文脈に依拠し、相互主観を通した変化プロセスの只中で知識に「成る」のです。
これまでのデカルト的哲学の流れを汲む脳科学・神経科学は、脳が身体、命令を出す司令塔であり、脳が身体を支配するとの前提のもとで発展してきました。しかし、世界から受け取るすべての情報は、身体を通じてしか脳に入ってこないのです。
外界からの多くが身体を媒介にして無意識に取り入れられますが、「記憶」を参照しながら知覚できる身体の反応を仮説にして理解していくのが、ダイナミックな脳の基本的な機能です。つまり、知識は環境のなかで心身一体のダイナミックな相互作用が起こるときに創造されるのです。
フッサールは、「対化(paarung)」という受動綜合の動きを通して、別々の身体をもつ個々人が相手の意識や身体感覚を共感できる、と論じました。発生的現象学によれば、赤ん坊の自己いが形成される以前でも、赤ん坊と母親の生きている身体がともに居合わせているだけで二人の情動が一致し、赤ん坊の諸感覚が形成されるそうです。受動的志向性は、独立した個人ではなく、複数の人間の「つながり」をもとに働いているのです。対化は、それを前提にして、自分の第二の身体のよう、相手の身体感覚を自分の意識に映し出します。しかも、自分と他者の身体が、相互かつ同時に連合するのです。
「我―汝関係」は身体性を媒介に成立するのであり、相互主観主義の基盤には間身体的な体験共有があります。母親と赤ん坊が添い寝や授乳をするときのように、’身体を介して生き生きした「いま・ここ」を共有している状態こそが「共感」の基盤となります。
この乳児期に生成した、自他の身体の区別が生じる以前の相互身体性は、じつは成人した各自の身体の根底において、いつまでも感覚的基盤として存在しており、その上にじぶんの、身体は自分で動かせるという意識的な運動感覚が形成されることによって、自他の身体が区別できるようになるのです。~