今日は夜勤で入らせて頂きました。
準備していましたが、職員んに、体調不良者が出てシフトを変更していたら、アップを忘れていました(笑)。
色々と検索していたら、下記に行きつきました。存在自体は知ってはいましたが、PC上でも入ったことがなかったので、入ってみました。素敵な発行物があり、時間を見つけて読ませて頂こうと思いました。
その中で、下記が印象に残りました。物理的世界は、受け身の世界。象徴的世界は、自由な世界。施設は大概、物理的世界になってしまっていますね...........。教科書よりこちらの方が面白かったので(笑)、夜勤時大分読みました。
P.18論考〈特集・負の感情〉 負の感情の適応的意義 (入來篤史)PDF(2.5MB)
皆藤先生の引用ですが、主体と言うのは、本当の自己ではないと言っているように思えました。だから二分法でものを考えるな!と、強調されているんですね。でも、民主主義って本当に存在するのだろうか?と、大学院で学び始めて、余計に感じるようになりました。教授陣の絶対とか、他のスクールより、この部分では負けないとか、それは学ぶ方がどう学び、どう感じることができるのか?にかかっているとも思えますし、他のやり方があっておられる方も、勿論おられるだろうし、変な自信よりも、その方の強みを見つけ出して、それを強化していくしか、限られた時間の中では無理な気もします。答えは1つではない!勿論、理解はできますが、1つの時もあるのでは?4つ、5つの時もあるでしょうが、エビデンスベースで物事が進むようになって来ている今、それって答えを絞り込むことになっていないだろうか?思い悩むだけで時間が過ぎていきます。
⚫主体の逆転
二分法は、現象を理解するうえで客観性・普遍性をもっているために急激に人間の営みに侵入してきた。
二分法も人間が産み出した思考法であるから、主客は逆で、人間の営みが二分法を取り入れてきたというべきかもしれない。
けれども、二分法による抑圧は人間の営みにとってあまりにも強大で、そこから産み出された道徳的・倫理的規範は人間を規制するという事態を生ぜしめたと筆者には思われる。
すなわち、社会がさながら善悪を区別し悪を抑圧するといった様相を呈してきたのである。現代において、こうした様相は頂点に達した観がある。
そこでは、「いかに生きるのか」を探求するのは個人ではない。道徳的・倫理的規範がそれを教えるのである。~