今日もすろーじゃむの湯に行かれたようです。写真は先日のものですが、すろーじゃむには、お宝が沢山眠っています。
こちらも同じ日の写真ですが、そういえば初期のころに、万博アニキが色々と置いて行ってくれたのを思い出しました!
面白いかるたも沢山ありましたが、かるたはうたたねに持っていきました。
下記は少し前のものですが、福岡先生くらいの方の発言が少ない気がします。これくらいの方が言われることなら、皆さん耳を傾けるのではないでしょうか?
元々人間が持っていたというのは、洞窟を住家にしていたら、こうもりと家族同然だし、説得力がありますね。
今日は、zoomでの講義が9時から13時過ぎまであり、おまけにレポート提出まであり、課題図書は通読させて頂きましたが、相変わらず下手な引用しか出来ていなくて、推敲するのもなんか気恥ずかしく、もう提出しました。卒業するまでには、きちんとした、アカデミックなレポートが書けるようになれたらいいですが.......。
レポートを書いていたら、現場から電話があり、元気がない方がいるので.......現場に行きましたが、コロナ禍の下、落ち込まれておられるようでした。ドライブに誘って、二人だけの時間を過ごして、沢山話をさせて頂いたら、少し不安が軽減されたようで良かったです。本当に早く収束してほしいですね......。
今回も東畑先生の引用ですが、『重要なことは、意味の側に焦点が置かれることから、現前されたものは透かして通過されてしまうことである。』は、今ここで、ではなくて退行しているところ(乳幼児期)だけに意味づけをするからでしょうか?難しい個所ですね.......。
~簡潔に検討を行ったが、フロイトとユングは人間観を大きく違えているにもかかわらず、そのまなざしにおいて同じ地平を共有していることがわかる。
夢に現れた蛇に対して、自由連想的に遠ざかるにせよ、神話的拡充によってとどまるにせよ、最終的に蛇は「性欲」「死と再生」といった何らかの「意味」へと解釈されていくことになる。英語の“Interpretation”は「二つの側の間に立って世話をする(小島ほか2007)」を語源としている。
解釈とは二つの次元を想定して、その間を繋いでいく営みなのである。
古典的理論においては、現前されたものから「意味」を導きだすという二者の間を繋ぐ解釈的な作業が共通して志向されている。
このとき、古典的理論のまなざしを、「現前されたものを『意味』へと二重写しにするまなざし」と定式化できる。重要なことは、意味の側に焦点が置かれることから、現前されたものは透かして通過されてしまうことである。~