うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

久し振りの泉福寺さんと、記録更新(笑)と、イチゴとブドウと、【発達論的療育論】(精神分析と自閉症より)


 今日は、おそらく一年ぶりくらいの金曜日の散歩でした!
久し振りに、泉福寺さんに登って来ました。距離的には往復2kmくらいでしょうか?半分はジョギングなので、30分くらいで登って、降りて来れます。
 久しぶりに、野鳥を観察されている奥様と会い、としちゃんを覚えてくれていて挨拶してくれました。
排泄のコントロールが難しかった時期から、その奥様は見ていて下さっていたので、大変だったところも見て下さっていました。としちゃんは5年前とは違っていることもきちんと見ていてくれました。
 泉福寺さんに最後にとしちゃんと行ったのは、去年の1月だったでしょうか?2月だったでしょうか?みーちゃんの病気が治りますようにと、白山神社(泉福寺さんの境内にあります)の石に願をかけたのも思い出しました。
 今日は、みなさんの健康を、としちゃんとお願いしてきました!

 一汗かいたので、車にエアコンを入れて、水分補給!
トイレ休憩と、クールダウンしに、すろーじゃむに行きましたが、イチゴはまだ早かったです。
出来ていたら、としちゃんと食べようと思っていたので、残念でした.....。
 肥料をあげていないのであまり期待はできませんが.....。

 北海道の友人からもらったブドウは、今年3年目で、実がなる予定(笑)なので、棚を早く作らないといけませんね!北海道でもタンポポが咲いたら、展葉していたので、早くしないとって思いながらまだできていません。
 杭を打って、針金を張って、水平コルドン(垣根作り)にする予定です。
本当は、シャルドネとかピノ・ノワールとかのワイン用の品種を送ってもらうつもりでしたが、醸造は無理(笑)なので、友人がノース・レッドを送ってくれました。生食できるので、こちらの方が良かったですね。
 そんなことより、棚作らな!

 すろーじゃむの庭の雑草が凄い事になってきたので、混合油を作ってもらう手配をいつも行くガソリンスタンドのお姉さんにしたので、すろーじゃむ用に買った刈払いの2回目の出動もまじかです!
 畑もそろそろ再開したいですね!


 雑草の中、逞しく咲いていた花を、すろーじゃむに投げ入れて来ました。


 散歩はまだまだ続き、昼からはサンテパルクの池を約2周

 お天気が良かったので、きちんと水分補給してうたたねに戻ろうと思ったら、時間がまだあったので

 少し寄り道をして白谷海浜公園に、風が吹いてきたので、トイレ休憩がてら行ったら、トイレ後散歩になってしまいました。ほど良く風が吹いていて、気持ちが良かったです!


 で、気がつけば、記録更新してしまいました(笑)
ちっとも痩せませんが......。


 今日は9時出勤でしたが、7時に家を出て、マックで親分配給のコーヒーチケットでコーヒーを飲みながら『自閉症とパ^ソナリティー』を読んでいました。もう少しで終わりますが、アップは寄り道している『精神分析自閉症』です。段々核心にと思って読み進めていましたが、結局、逃げてしまっているラカンを読まないと、隠喩の本当の意味が分からないのでは?みたいなことになってしまっています(笑)単に知識不足なだけですね(笑)自分が欲しい答えはまだ見つかりません......。『発達論的療育論』なるものの、きちんとした本を読まないといけませんね....。
『隠喩』や『隠喩のメカニズム』なるものをもっと分かり易く説明している本も探さないといけませんね!
 だからラカンは.....ってやっぱり言いたくなりますね(笑)
 でも、参考になるのでアップさせて頂きました。




❄発達論的療育論
 発達論的療育論の一つから、特徴的な例を挙げよう(グリーンスパン/ウィーダー、2009,p.3589)。自閉症のある子どもによく見られる行動として、ミニカー並べが知られている。何台ものニミカーをミリ単位で精密に並べるのである。ミニカーを走らせて社会的ごっこ遊びの中で動かして楽しむ定型発達の子どもとは違って、純粋に物の配列自体として楽しむ遊び方である。この種の並べ遊びに対して療育者はどう向き合えばよいのか。
 「大人と関わりたいと子どもに思わせるため、行動を子細に観察し、何に関心を向けているのかを見つけるのです。特徴的な行動の背後に興味の対象を発見できるかもしれません。玩具を並べている子どもが、実はその子なりの秩序を作っていたり、デザインしている場合だってあるのです。玩具を一列に並べていたら、もう一個付け加えてさらに長くしたり、玩具を右に置いて列が曲がるようにします。……じゃまされているのではないとわかれば、子どもは玩具を並べた後に手を休めておとなを見つめ、次の玩具をどこに置いてくれるか期待するようになります。そして、大人を遊び友だちとして認識してくれるのです」(pp.172-173)。 
 この手法は、従来の療育で用いられがちだった反復練習に伴う難点の克服を目指している(p.25)。反復練習はそれなりに効果的とはいえ、どうしても、子どもを高みから始動する姿勢を前提にしてしまいがちである。そこで、そのような固定した関係性を何とか回避しようというのが狙いである。そのための基本原則は「子どものリードに従う」ことであり、子どもの奇妙な行為の理由を「それは障害だからだ」と解釈して終わるのではなく、そこにも「真の感覚があり、真の要求があり、真の願望があるからだ」と見ることから出発する姿勢である(p.170)。
 しかしこの療育法にもむずかしさがあり、開発者自身それを自覚している。「親が一番混乱し、質問をよせてくるのは『子どもからのリードに従いつつ、同時に新しい課題や能力を身につけさせるにはどうしたらいいか』ということ」である。この質問に対してこの療育法は、「子どものリードに従うことと、新しい課題にチャレンジさせることは、コインの裏表の関係と同じ」と答える。「子どもの関心に従っているだけでは、新しい発達段階に進んで新しい能力を獲得することは出来ません。クルマを行ったり来たりさせている子どもと同じことを大人がすれば、子どもは何回か大人の方を向きます。しかい、それ以上にはなりません」。「難しいのは、どうやって子どもの関心のある世界に入り込み、どうやって子どもに課題をやらせるかです」(pp.193,195)。そのために考案された多面的な工夫が、この療育法の重要な部分を成している。
 このような新しい発達論的療育論には、応用行動分析では見事に棚上げされていた「真の感覚」「真の要求」をめぐる考察も含まれており、そこに間接的ながら隠喩の次元への接点を見いだすことも可能であろう。だが、隠喩の次元に実践面で近づきつつも、隠喩のメカニズムそのものにはアプローチしがたいのが現状のようである。自閉症療育者実践の中に、はたして隠喩成立の可能性はあるのか、それとも換喩的「転移」だけなのであろうか。考えてみればこの問題は、特定の人々にだけ当てはまるのではなく、他者に何かを教えること一般に関わる問題であろう。
 子どもに何かを教えようとする際、教える側と子どもとが何かをすでに共有していれば、話は楽である。では、そうでない場合、何も共有していない状態から出発して、何かを共有するためには、どうすればよいのか。それは、上記のミニカー並べに大人が入り込もうとする際に直面する困難である。そこで、説明の無限後退に陥ってしまわないであろうか。このような問いかけは、発達障害に関わる人々だけではなく、隠喩が成り立ちにくいとされる現代社会全体にとっても重要だと思われる。隠喩の次元に注目する精神分析は、この面で何らかの貢献が可能なのかもしれない。