うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

田原市文化祭と、11月なのにかき氷と、【すなわち分析家は心的決定論を理解しているおかげである種の寛大さを持ち合わせている、それは非難とは正反対のものであるけれどもしかし決して甘やかしや無関心ではない、ということである。】



 今回は、立派なホールで本番前の緊張が半端なかったです!
ちかちゃんは、人前で歌うのが初めてなのもあり、本番前少し泣きそうでした(笑)




 緊張感の中、それでも皆さん頑張って唄い切りました!
来年もこんな立派な舞台に立てたらいいですね!
 うたたねの女性職員さんが持って来てくれた話でしたので、感謝しています。
ギターは、下手ですが、音がよく鳴ってくれたので、弾いていて非常に気持ちが良かったです。
 写真も、お母さん方に無理を言って(親分がw)撮って頂きました。重ねてありがとうございました!



 機材を片付けたら直ぐに現場に直行しました。
今日は日中の人数が多かったので、2班に分かれ、おっちゃんはお昼マックと伊良湖とすろーじゃむの湯コース担当でした。
すろーじゃむのお風呂は、大きいので、お湯が溜まるまで、伊良湖に行き、かき氷屋さんがやっていたので、皆さん行きたいとのことで、入りました。
朝は寒かったですが、お昼は暖かかったので、11月でもかき氷はありかな?とも思いました(笑)美味しかったですが。


 食べてばかりも体に悪いので、伊良湖の浜を歩きました!
少し汗を流して、すろーじゃむの湯に入って、夕方うたたねに戻りました。
またしばらくしたら、夕飯でしたが........。



 本は、早めに駐車場に車を置きに行き(搬出する機材があったので)マックで無料のコーヒー(出光でガソリンを入れると100円以上マックで買うとコーヒーが無料になるチケットが今もらえるので)と100円のソーセージマフィンを頂きながら読みました。
 強度行動障害をお持ちの方々の支援も、思わず逆転移していると、自分は感じる時が多くありますので、下記は本当に、自分の心のありようを考えさせられる箇所でした。
投影されたものを、その方が受け取り易いようにして返すのが、支援者の役割だと思いますが、本当に勉強し、実践していかないと、呑み込まれてしまいます。
 そうなってしまっている支援者の方が多いですが.......。


2.正常な逆転移とその逸脱  ロジャー・モネー・カイル
正常な逆転移
 分析家の患者に対する正しいあるいは正常な態度については、論文や議論において言及されてきた数多くの見解がある。フロイトは“好意的な中立性”について述べている。このことで私が主張しておきたいのは、分析家は患者の葛藤に情緒的に巻き込まれることなく、患者の福利に関心を寄せておくということである。それはまた次のことも意味していると考えられる。すなわち分析家は心的決定論を理解しているおかげである種の寛大さを持ち合わせている、それは非難とは正反対のものであるけれどもしかし決して甘やかしや無関心ではない、ということである。 多くの分析家が科学的好奇心という要素を強調してきた。確かにこの昇華作用があってはじめてなしとげられるものがある。しかし、それだけではあまりにも非人間的すぎるように思われる。患者の福利に対する心づかいは、2つの別の基本的な欲動の融合から生じていると考えられる。すなわち1つは修復欲動、これは私たち誰でもの内に潜む潜在的な破壊性を中和するものである。そしてもう1つは親的欲動である。もちろん、もしあまりに強ければ、それらの欲動は、非常に強ければ不安の原因になりうる、不適切に昇華された攻撃性に対する過剰な罪業感を暴露することになる。しかし、ある程度までならばその両方とも間違いなく正常である。分析をすることによって修復的な満足が得られることは明らかなことであり、またしばしばそのように言われてきた。このようにある程度、患者は分析家自身の無意識の空想の中の傷ついた対象を表しているに違いない。この無意識の空想は依然として攻撃からの危険にさらされており、したがって未だに気づかわれ修復されなければならない。親的な面はポーラ・ハイマンによって議論されている。患者が子どもを表しているだけでなく、ときには同胞を表し、親も同じように表すことは誰も指摘していないようである。だが患者の中の無意識の子どもにこそ分析家は最も心を向けるいるだけでそしてこの子どもがしばしば分析家を親と見なすゆえに、分析家の無意識は彼の子どもとして患者を見なし対応することを幾分なりとも怠らないのである。 ところで親にとって子どもは、少なくとも部分的には、自己の幼少期のある一面を表す。このことは重要に思える。というのは分析家が、まさに自分の幼少期の自己、それはすでに分析されているが、その自己を患者の中に認識することができるから、分析家は患者を分析できるのである。分析家の共感と洞察は、彼の理論的な知識とは異なっておかなければこの種の部分的同一化によるものである。
 しかし、同一化は2つの形――とり入れと投影――をとる。この2つはフロイトの概念と中では潜在的に区別されていたもので、それは重要性はメラニー・クラインが最近明らかにした。したがって分析家の患者との間での部分的同一化においてはその両方の形が見出だされるだろう。 これから分析がうまくいっているときに起こっていると思われることを公式的に述べてみよう。そこではとり入れと投影とがきわめて速やかに交互になされていると思う。患者が話している間、分析家は言わば患者をとり入れ同一化し、内面で彼を理解している。そして再投影し解釈するのである。しかし分析家が最も認識しているのは投影の段階であると思う。つまり、この段階において患者はその傷ついた対象も含んだ、分析家自身は過去の未熟なあるいは病的な部分を外界で表している。分析家は今ではそのことを理解しているので解釈によって扱うことができるのである。 一方患者は効果的な解釈を受けとるが、そのような解釈は、理解されていくだろう連想を患者がさらに生み出すように手助けするのである。そして分析家がその連想を理解する限り、この満たされた関係――私はそれを“正常”な関係と名づける――は持続する。特に分析家の逆転移感情は、彼の洞察がその基礎にある患者との共感の内におさまっているだろう。